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Wyler社の自動巻き時計

表題写真はスイスWyler社の1960年代のメンズ用自動巻き腕時計のテンプを取り外したところ。ムーブメントはETAのエボーシュ、2375ベース。文字盤の12と6のインデックスデザイン、先端が下に湾曲したsecond hand、など美しい。

腕時計というのはなんだかんだで19世紀末には存在していたらしい。主に女性向けの精度は二の次のアクセサリとしての存在で、本格的な腕時計の普及は第一次大戦で実用性が証明されてから。当初の軍用時計は小型の懐中時計のケースに細工をして、ベルトを通すリングと文字盤と針を保護する荒い金属メッシュのカバーを後付けしたような形だったらしい。第一次大戦と言えば塹壕、トレンチ。アクアスキュータムなどが軍用に提供したコートの名前同様、初期の軍用時計はtrench watchなどとも呼ばれる。

戦争から帰ってきた兵隊さんたちをきっかけに腕時計が一般に普及していくが、その過程で技術的な課題となったのは防水性と落としたりぶつけたりした際の耐衝撃性。1920年代のRolex社による防水Oyster Caseや、1930年代のIncabloc社によるIncablocというbalance wheel軸受けの耐ショックの仕組みなどが代表的な対策。

もちろん時計としての精度は大切だが、時計の心臓部、balance wheel(日本語だと天輪)が外乱に耐えてその精度を保つには、balance wheelの振動の運動エネルギーを日常的な外乱よりも十分に大きくする必要がある。エネルギーを増やすには振動数を上げるかまたは慣性重量を増やすか。振動数はメインスプリングの強度だのpower reserveだの色々制約があって無闇に上げられない。慣性重量はbalance wheelの径を大きくするか重さを重くするかで大きくできる。腕時計であるからして、ムーブメントを無闇に厚くすることははばかられる。だからbalance wheelをムーブメントで一番厚みを持ちやすい時計のセンターと重ねるわけには行かずbalance wheelの直径はムーブメント直径の1/2未満という制約が生じる。というわけで結局、balance wheelにはどうしても一定の質量が必要、ということになる。

一方でbalance wheelはできるだけ自由に振動させたいし、姿勢差による差異は小さくしたい。そのためには、balance wheelの軸受機構、軸側のpivotと受け側のbearingとの接触面積はできるだけ減らしたい。接触面積を減らすにはとにかくbalance wheelのpivot、天真の先っぽ、は細くしたい。というわけでただでさえこまかい時計の歯車の中でもbalance wheelの軸は飛び抜けて細く、軸の先端のpivotの直径は多くの腕時計で0.1mm以下。
余談だが天真 vs 姿勢差について。天真の磨き方がBlova社の時計修理マニュアルにある。天真の先をどのような形状にするかには各社ノウハウがいろいろある。Blovaが強調しているのは、テンプが横向きでpivotの側面が接触している状態と、テンプが上または下向きでpivotの先端が接触している状態との間で、接触している部分の動摩擦の力の違いに留意せよ、ということ。pivotの先端を尖らせ過ぎてしまうと、横向きの状態に対して摩擦が小さくなり過ぎるので少し先端を平らに潰せ、とある。

話を戻す。というわけで、どうしても一定の質量を持たざるを得ない balance wheelを0.1mm以下の軸で支えなければならない、という事情が、衝撃に弱いという時計の避けられない運命の源である。

Incablocでは、軸受けのルビーをバネで支えることで細かい衝撃を吸収し、ある程度大きな衝撃の場合には天真の太い部分がブリッジのbearing周囲にぶつかり、どのような衝撃でも0.1mmのpivotに負担がかからなように設計されている。賢い設計。Incabloc風の解決策は、RolexやSeiko、Citizenなど大手メーカーによって様々なバリエーションを開発されてきたが、全く違う発想で対策を考案し実装した会社がWylerである。

Wyler社は1930年代初頭にincaflexという非incabloc系の対衝撃機構を発明、エッフェル塔から落としてデモをした、と伝えられている。(ちなみにCitizenはヘリコプターからばら撒いてデモをした、と伝えられている。)Wylerは、スクラッチからのムーブメント開発こそ行わないものの、ETAやフォンテンメロンのエボーシュをベースにしばしば大幅な改変を施すことで知られた技術的にチャレンジングな会社だったらしい。

1960年代のWyler incaflex Dynawind、裏蓋はアクリル製のdisplay back仕様。リューズは同時期のOmegaにもみられるsplit stemで、強く引くとcrownと短いcrown側stemが外れてムーブメントを取り出すことができる。ムーブメントはETA2375ベースでWylerでの名称はWH26、右下に見えるbalance wheelがWylerのincaflex型balance wheelに置き換えられている。元々のbalance wheelは天真から180度対向の2本のスポークで輪っかを支える普通のタイプ。WH26のincaflex balance wheelは、この写真や表題写真で分かるようにこの2本のスポークがグニョンと曲がってバネ性が持たせられていて、これにより0.1mmのpivotに急激なショックが加わらないようにする仕組み。

Wylerの昔の時計は現在とても人気があるわけでもなく、eBayには手頃な値段でコロコロ転がっているし、人気がないから偽物つかむ心配もない。display back仕様はちょっとめずらしいけど、この僕の個体は40ドル台。アクリル風防はガビガビだしケースも汚く、実際どんなコンディションなのかさっぱり分からない出品状態だったのであまり競合もなく落札。

ムーブメントの調子がよかったのはラッキー。バラして、ケースは超音波洗浄を何度もかけ、風防は3Mのスポンジ研磨剤とコンパウンドで磨き、ボロボロだったcrownはeBayで買ったNOS品に付け替えて(ちょっと大きめだけど)復活。それなりに防水性も保たれていて、SUPに持ち出しても問題なし。

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