伊和月文奏 1st One man live 『地図にない或る街の情景』
地図にない或る街をめぐる手記
無国籍風の服を着た人物が現れて、古いアップライトピアノの前に座る。三拍子の悲しげな旋律を奏でると、少し硬い顔つきで傍らのギターを手にし、舞台中央に進み出て、木製の椅子に腰掛けた。
伊和月文奏(いわづもがな)の名の、自らを異世界から来たという胡散臭いその男は、我々の世界で言うところのシンガーソングライターである。
彼が一度音を奏でると、そこは一瞬にして「クチナシ」と名付けられた世界の風景に塗り替わる。
うっかりすると飲み込まれそうな自己嫌悪と憂鬱、見上げれば塗り込められたような曇天、足元はずぶずぶと泥濘みに沈んでいく。そこここに漂うのは死を匂わせる不吉な言葉たち。
ありがちといえばありがちで、ともすれば自己陶酔に陥りがちなモチーフを、抑制した演奏と歌声で紡いでいく。
そう、これは彼自身の物語ではないのだ。彼が旅をして見聞きしたという物語。
壁面に照射される映像は幻想的ではあるが、ここには甘やかな恋物語も、胸躍る英雄譚もない。人々はただ、ありふれた絶望で静かに乾いていく。息が詰まるほど湿度の高い情景の中で。
どんなに痛々しい感情もどこか他人事のように、ただただ「次の話」と、淡々と語り続ける彼の声は、不思議に優しくもあった。
彼の目に世界がどう映っているのかはわからないけど、ひょっとすると、このどうしようもないように思える物語は、私が思うほど悲しくも、痛くもないのかもしれない。
そういえば、雨の降り止まない街に暮らす青年は、かつて部屋にこもって自分以外のすべてを恨んでいた私によく似た顔をしていた気がする。
大嫌いだって
胸を張って言えるほど
何かを好きになったこともないから
『雨の街』
曇っているのと、視界の利かない闇は違う。色は失ってしまったとしても、少なくとも自分の姿かたちは確認できる。それに気づけずにいるのは、晴れていたいつかの日を覚えていて、そればかり羨むからだ。
何事も本気で好きにも嫌いにもなれなかったのは、恐怖のせいだったと、今の私は理解している。何かを深く愛するということは、どこかに深く憎むものも生まれてしまうことだから。それなら等しく色あせた世界にいるほうが、どれほども楽だ。――それがとんだ思い違いだったとも、知っているけれど。
進むことも戻ることもできず立ち竦む人にも、わずかばかりの物語があるのだと、彼はいいたいのかもしれない。あちらの世界の救いのない物語は、こちらの世界の誰かの物語にそっと寄り添って、小さな光を灯してくれる。
アンコールはないと宣言して、最後の歌を歌い終えると、彼は振り返ることもなく次の旅に出掛けてしまった。
私も開けたことのあるあのドアの向こうには、いつもの見慣れた楽屋ではなくて、異世界の曇り空が広がっていたに違いない。
覚悟しろ、オタクの話は長いぞ
さてと。肩の凝りそうなカッコつけた文体は一旦やめる。
ここから延々と4000文字近く書くつもりだけど、少々世界観を壊す話もあるので、ここまで読んで彼の歌が気になったなら、TwitterとYouTubeをフォローしてLINE公式アカウントにしっかり登録したうえで、こんな駄文などさっさと閉じてくれ。
私は推しが語りたいだけなんだ!
ここが凄かった
イベントを企画・主催するとなると、知り合いをかき集めることから始まると思うのだけど、それに始終して席は埋まっているが空虚な現場ってある。開演前のなーんか白々しい空気と、終演後わざわざ今しなくても良いような世間話で盛り上がってる人たちをみると、何のためのイベントだろうと思ってしまう。
今回は違った。会場に入ってきた瞬間、そこにいる人の高揚感を肌に感じた。終演後にも「良かったねえ」と言い合う姿があったし、それは仲間の贔屓目じゃあない。
用意していた音源を売り切ったこと、これも本当に凄いことだよね。呼ばれたから来たけど、CDはいいわ……って人がいてもおかしくはないんだし。
50枚に対して動員は48名、その場にいたほぼ全員の人が音源を持って帰ったわけ。これは良いライブをしたという証拠だ。
私は彼と出会って半年くらいしか経ってないし、実は実際に顔を合わせたのも片手で数えるほどだけど、今回の成功は、応援したいと思わせる彼の人柄の賜物でもあると思う。
私はステージ真ん前で鑑賞していた。会場に着くのがギリギリになっちゃって、見回したらそこくらいしか見当たらなかったんだ。いや、決して前列で見たくないって意味じゃない。
演者の知り合いが目につく所にいるとプレッシャーっていう人もいるから、なんか申し訳ないなあと思ってたんだよ。
終わったあとに真ん前で見ててごめんねえと言ったら、「同じ温度の人がいてくれて安心しました」と返してくれたこと、ちょっと照れくさかったけど、嬉しかった。
虚実のあわいからの伝言
私事で恐縮なんだけど、私も彼と同じく、ストーリーテラーとして活動している。
私はワンマンを行う心意気と勇気で充分に感動はしたんだけど、語り部さんとしての人格が片頬膨らませて不服面をしているので、憑代担当の私から口語体でお伝えしておこうと思う。
普段のブッキングライブならその場で思いついたことを語っているような雰囲気もいいけれど、単独公演という大舞台としては、淡々としすぎているようにも感じてしまった。
もう少し曲順と語る内容をしっかり作り込んで、観客の感情を誘導できればひとつのショウとしても感動させられたはず。
せっかくのワンマン、肯定的な観客が多い環境だからこそ、初見の人へとは違うアプローチが試せる場だとも思うし、ここが山場だ、という部分があれば良かったな。
ひとつひとつの曲は完成度が高いし、コンセプトははっきりしているのだから、もったいないところ。
例えば『ロアの塔』は終盤の「自分の活動がいつ終わるかわからない」という事を語った後でこそ活きてきた。自らの存在の儚さと、嵐で崩れていく塔の映像は、しっかりとリンクして聞き手の脳裏に浮かび上がったはずだ。
逆に最初は思い切って絶望感の強いナンバーでガツンと殴りつけても良かった。開幕早々、終わりを唄うというのもパンチが効いていて乙なもの。
もちろんこれは一例で、徹底的に淡々としてドライな世界を極める方向でもいい。
やり方は何にせよ、ひとつひとつのお話を表現することとは別に、ステージ全体を通してひとつの雰囲気を作ることを意識すると、より没入感を得られたんじゃないかなあ。
きみには充分それができる資質が備わっているはずだ。
……と、いうことだそうです。
第二弾はもっと凄いやつ期待してる、というか演出補助でスタッフしたいです。いいえ、させてください。
え? 終わった端から次回のワンマンを勝手に期待するな?
期待せざるを得ないものを見せといて期待するなと申されましても……。
結局のところ、クチナシとは、伊和月文奏とは何なのか?
うーん。まったく謎が解けなかった。
それは今後の展開を待てということなのか、言わずもがな、と、語るつもりはさらさらないのか。
私なりに推測してみると、「クチナシ」とはおそらく「口無し」だろう。日常生活ではとても口にできないような感情を託す、という意味だろうと当たりをつけている。
「とても幸せです」という意味をもつ花の名前を冠すると考えても、皮肉が効いている。登場人物は誰一人幸せそうではないのに。
雨の街が再び晴れ渡る日は来るのだろうか、一人寂しくギターを爪弾く青年は外へ出たのだろうか、老廃道線に乗った彼は生きる意味を見つけられるのだろうか、死んでしまった街に取り残されたのは本当に生きている人間なのか――帰りの電車に揺られてつらつらと考えた。
なんとなくだけど、あの世界には始まりも終わりもない気がする。
彼がこちらの世界で歌うたびに、私たちがCDを聴くたび、口ずさむたびに、穴だらけの覚束ない物語が再生されては消えていく。
彼らに救済が訪れるのは、この歌を覚えている人がいなくなる時ではないか。
――物語を紡ぐ人は咎人だ。
どこで目にしたのか思い出せないけど、物語を書くときに私の背筋を怖気とともに駆け上がっていく言葉だ。
そこに綴りさえしなければ、その悲劇は生まれなかった。自分自身が呪っているこの人生でさえ、誰かの手慰みなのかもしれない。私がこの世の外側の何かに腹を立てるように、作中人物の生きる上での恨みは私に向けられているのだ。ぞっとする。
それでも人は、物語を欲する。現実を生きることに飽き足らず。
私が自分の物語の最後に、術を解くように「現にお戻りを」と語るのは、私がその影響力を恐れているからだ。幻想は心を癒してくれるが、長居すると戻れなくなってしまう。
最後の言葉を語り終えると同時に、全てはあるべき場所に還らなければならない。
でも、彼の物語は初めから”終わっている”。
エンドマークから逆さまに綴られた言葉は、蓋のされない書き出しから忍び出て、現実世界を容赦なく蝕んでいく。
駅を出て、深夜の暗い商店街を自転車で走り抜けたとき、ふらりと向こう側に行けてしまうような、そんな気配を感じた。
執筆活動で生計を立てるという目標を持っております!!