「あの失敗があったから〜そもそも何が一番の失敗って」
そもそも、この世に生まれたことが一番の失敗だ。
あの世があることを信じている私のあの世のイメージは、それはもう最高なところ。
美しく花が咲き乱れ、芳しい空気が頬を撫でる。
新緑の鮮やかなグリーン、被い茂る熱帯植物の深緑が、山や渓谷の周りをグラデーションに彩る。
滝の音、せせらぎの音、小鳥の唄声、サンライズの奏、サンセットのメロディー、風の音、雨音、全てが、調和のあるハーモニーとなり、自然のBGMとなる。
セントラルサンの神々しく、柔らかな光が、ダイヤモンドの粒のように降りそそいでいる。
気候は温暖で、地上でいう亜熱帯気候。
想いはすぐさま現実となり、欲しいものはなんでも目の前に出てくる。
行きたいところをイメージした瞬間、そこに移動も出来る。
地上の様子も、映画のスクリーンで見るように、見たい場面を見ることが出来る。
苦労は何もない。
心地よく、愛に溢れ、光に満ち、お金もいらない、食べなくても、存在できる。
ネガティブな要素は全くない。
不平も、不満も、貧困も、喧嘩も、戦争もない。
そんな場所を飛び出してこの世に生まれ出た理由は?
この世に来た理由は鍛練して、一気にアップグレードするため。
ドラゴンボールでいう時の部屋だったかな。
その部屋に1時間入るだけで、10年分鍛練し、強くなり、スーパーアップグレードを遂げる部屋。
一生という長いようで短い時間で、チャレンジを続ければスーパーアップグレード出来る。
私たちはみんな、最初から、苦しいスタートを切っている。
私は子どもを産んだ経験があるけれど、その痛み、産みの苦しみは、想像をはるかに超えていた。
赤ちゃん自身も、母親と同じくらい苦しい思いをして産まれてくると育児書で読んだ覚えがある。ということは、あの産まれた瞬間のギャン泣きは、「そりゃそうよね。」と納得する。
それまでの記憶を全て消され、1人では、食べることも、話すことも、動くことも出来ない。
首がすわるにも、2ヶ月はかかる。
お腹が空いたことも、オムツが濡れて気持ち悪いのも、泣いて伝えるしか手段がない。
絶対に、大人の手を借りなければ、2日と命がもたない。
不自由すぎて、泣きたくなるから、黄昏時に泣くのかもしれない。
そんな人生の滑り出しで、学ぶことは、
生きるためには、人の手を借りてもいいんだよってこと。
この世の授業の1時間目は、人の手を借りて生きる鍛練。
誰だって、1人では生きていけない。
1人で生きているわけではない。
誰かのお世話になったからこうして生きている。
長女のオムツ卒業の時のことを思い出す。
長女はもよおしてくると、椅子を3つほど使い、囲いを作って、オムツを履いたまま、しゃがみ込み、眉間に皺を寄せて頑張っている。
「ひかちゃん、うんちしたいなら、おトイレに座ろうか。」
娘は、イヤイヤをして、絶対にそこで用を足していた。
そして、そのあと、オムツが気持ち悪いと訴えて、履き替える。
「ひかちゃん、椅子で自分だけのおトイレ作ってる間に、ちゃんとおトイレに座れば、気持ち悪くないんだよ。
次はやってみようね。」
「うん。」
でも、次も、その次も、いつも通り、椅子で囲いを作って、オムツの中で用を足す。
「じゃあ、次のために練習しとこうか。」と言って、トイレに座らせると笑顔で座る。
「次は、大丈夫だね。練習したからね。」
「うん。」
でも、その次もまた、椅子の囲いトイレを作り出す長女。
「練習でお座りトイレで出来たから、やってみよ!」
激しくイヤイヤをする長女。
そんな長女に転機が来た。
同い年のお友だちが、家に遊びに来た時に、
「おトイレー」と、言って、お母さんと一緒にトイレに座りに行き、そこで用を足すのを見たのだ。
その日、初めて長女は、自分からトイレに座って用を足した。
初めてすることは、トイレでさえ、こんなに勇気がいるんだと改めて感じた。
でも、先じて、自分がまだチャレンジ出来ていないことをしている身近な友だちがやったのを見て、自分にも出来るかもと、勇気を持って最初の一歩を踏み出す。
思えば、初めての滑り台も、ブランコも、とにかく、勇気を振り絞った。
保育園の初登園の日も不安で、泣きながらわたしの手をギュッと強く握りしめていた。
一日、二日と日にちが経つ毎に、初めての時はあんなに勇気が必要だったことが、不安や恐怖で渦巻いていたことが、慣れて、当たり前になり、その中で楽しいことをたくさん見いだした。
"初めて"のチャレンジは、勇気を振り絞って、やってみること。
それを何度か繰り返せば慣れて、どうってことなくなる。
そして、それを楽しめる自分にいつしかなる。
もしくは、息をするくらい自然なことになる。
そんなことを学ぶ授業が、人生では幾度もある。
学校、部活、アルバイト、仕事、趣味、ライフワーク、習い事、結婚、妊娠、お産、子育て、全てのことに、"初めて"はある。
経験を重ねて、進化させることもあれば、やってみて、自分には合わなかったと分かり、辞めてしまうこともある。
そして、また別のことをやってみたら、それが自分にとってのライフワークになることだってある。
それなら、あらゆる"初めて"を経験してみれば、面白いし、きっとアップグレードするだろう。
もう一つ、人生の中で欠かせないことは、人と人とのコミュニケーションだ。
人見知りの人もいれば、人に対して壁のない人もいる。人に好かれる人もいれば、嫌われる人もいる。人と関わることが好きな人もいれば、人と関わるのが怖い人もいる。
でも、自分の部屋から一歩出れば、必ずそこに人はいる。家族、友だち、知り合い、先生、上司、部下、他人。
そしたら、関わり方を工夫してみたらどうだろう。
好かれようと無理に自分を作るのでもなく、嫌われるようなことをわざわざ言うわけでもなく、要するに、自分と相手が気持ちよくコミュニケーションを取れる距離感を工夫してみればいいのかもしれない。
もちろん、失敗はある。
わたしは言いたいことを言って気持ちよかったけれど、相手がものすごく傷ついていたと後から知って、ショックを受けたことがある。
その後、わたしは、言いたいことをしばらく言えなかった時期がある。
でも、それはそれで、溜めてしまって、自分が息苦しくなった。
そんな時に、コミュ力の高い人を観察してみた。気持ちよく人と関わっている人は確かにいて、何が違うのか、よく考えてみた。
一つ気づいたことは、言い方によって、相手に与える印象が違うことがわかった。
「わたしがこれがしたい。」
「わたしがこうやりたい。」
「わたしがこうしてくれたら嬉しい。」
ということは、ちゃんと発信してるけど、相手に、こうしろ、ああしろ、と押し付けてはいない、言い方だった。
まずは、言い方、話し方を真似てみた。
そしたら、コミュニケーションがスムーズだった。
さらに面白かったのは、自分が、「わたし」メッセージを発信すると、相手も、その人の「わたし」メッセージを発信してくれるのだ。
本音で、自然に自分の想いを伝え合う関係は、とても楽しいし、気持ちがいい。
相手をジャッジしたり、批判したりする必要はなく、自分の本音を、そして想いを、言える人には、言えばいい。
言い方を工夫するという努力をしていると、結果
「この人に押し付けずに想いを伝えるには、どうすれば良いかな。」
とか、「この人はどんな性格で、どうすれば、気持ちよく受け入れてくれるかな。」
と相手を思いやる気持ちが、自然に出てくることになる。
そして、最大の旨みは、イメージ力を鍛えることになると言うことだ。
自分の家族、友達や知り合いとはいえ、全員と意見や考え方、好みが合うということは、あり得ないし、波動が違えば、自然に離れることになる。
自分のレベルを上げることにだけ意識を向けて前進していると、知らない間に、レベルの高い人に囲まれて、とても心地よい。
つまりは、自分の周りにいる人を見れば、自分のレベルが分かる。
人との関わりで傷つくことがあったら、こんな風に考えたら良いよと教えてくれた人がいる。
「ダイヤモンドの原石は、そこまで輝いていない。
磨く、つまりは、カットする、ある意味、傷つけるから、眩いばかりに光りだす。
だから、傷ついたら、また、ひと輝き増す!って思ったらいいんだよ。」
人は、人と関わるからこそ、自分磨きが出来るのだ。
そして、最後に、誰もが経験するのが、「別れ」だ。
大好きな人、大切な人との「別れ」の時は、必ず来る。
違う学校に行く、引越し、転職、そして死別。これは、本当にやられる。
私も、最近、父を亡くした。
病死だけれど、予想もしていなかった緊急入院から、1ヶ月経たずに、逝ってしまった。
入院した父を、コロナ禍の中、感染拡大防止措置として、直接見舞うことすら出来ず、
毎日、病院から、悪くなる病状を聞かされるばかり。
テレビ電話で話しても、日に日に弱る父の姿が、画面越しだと、まるで映画のシーンのようで、受け入れられない。
わたし自身がどんどんエネルギーダウンして、食欲は湧かない。
無理矢理食べても、まるで砂を食べてる感じで、美味しくない。
消化吸収していかないのが分かる。
私は1ヶ月で4キロ痩せた。
私の人生で1番辛い別れの日が来た。
亡くなるほんの1時間前にだけ、母と私だけ、病室に入れてもらえたが、延2人までしか入れず、妹はテレビ電話越しにお別れをすることになった。
その時に、私も、妹も、父の大切さ、父への愛、父の私たちへの愛を思い知る。
もっと、親孝行がしたかった。
もっと素直に話せればよかった。
色々と後悔がよぎった。
だから、大切な人を大切に扱いたいという気持ちを、常に忘れずにいたいと思った。
後悔しないように。
当たり前に身近にいてくれている人に、感謝を持って関わりたい。
別れの時に、ついつい普段忘れてしまっていた一番大切なことを、思い出さされる。
辛い思いは、人を優しくさせるのかもしれない。
でも、この辛い思いは、日に日にちゃんと薄れていってくれるから、人はこの世を生きていける。
自殺したいほど辛い人がいるなら、それも時間が経てば、生きていてよかったと思える日が来るから、とにかく日にちを過ごしてほしい。
誰か大切な人を見つけて、その人のために生きて欲しいと思う。
この世に生きていれば、色々なことを鍛錬させられる。
本当に、厳しい訓練場だ。
でもその中で、喜び、幸せ感、感謝せずにはいられないことも必ず見出せる。
その時に、私たちは、自分以外の人にもこの感覚を味わってほしいと心から思うことが出来るほど、優しくなれる。
全く違う自分を、何度もステージを変えて、全くレベルの違う人間になっていく。
全ては経験するという、この世の鍛錬のおかげだ。
あの世があるのか、どんなところなのか、見たこと、経験したことがないから、本当は分からない。
だけど、もし、わたしが、想像するような天国があって、そこに戻ったときに、本当に輝きを増して、スーパーアップグレードしたことを実感したなら、
この世という時の部屋での鍛錬は、最高だったと、そして自分は頑張ったと思えるに違いない。
あの生まれでた瞬間、
「この世に来るなんて、失敗した。やめとけば良かった。」という思いが、
「やってみて良かった。
あの人生の経験は宝物だ。
あの失敗があったから、スーパーアップグレード出来た!」と噛み締められる、あの世での自分を想像してみよう。
そもそも、この世に生まれたことが一番のギフトだから。