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初音ミクについて、あるいは虚構と現実の狭間で

はじめに


はじめまして。chia*という者です。


私はVOCALOIDが大好きです。とりわけ初音ミクが大好きです。

今年の夏、初めて私はマジカルミライに行きました。そこで見たものは私のただの「好き」という気持ちをもっと複雑で深いものにさせました。つまりこのような問いが芽生えたのです。

「初音ミク」ってなんだ?

それからいろいろなものを見聞きし、そのたびにいろいろなことを考えました。今回はそれらをいったんまとめるためにもこの記事を書くことにしました。ブログにまとまった文章を書くのは初めてなので拙いところもあると思いますがどうか一つお付き合いください。


マジカルミライに行った話

大学生になった今年、初めてマジカルミライに行くことにしました。マジカルミライとはざっくり言うと初音ミクのライブです。映像は見たことがあり、なんとなくの雰囲気は知っていたものの当日、そこですごいじゃすまないようなものを見ます。

結論から言うと初音ミクはそこに存在していました。もちろんスクリーンに投影された映像であると言うことは百も承知なのですが、それでも自分の目にはステージ上で初音ミクが歌って踊っているように見えました。マジカルミライのライブの中身だけでnoteの記事一つ書けるのですが今回はそれがメインじゃないので割愛します。とにかくいろんなことがあってありとあらゆる感情がもみくちゃにされた後、アンコール最後の曲で今年のマジカルミライテーマソングが流れるのです。まぁこれを見てくださいな。



和田たけあきさんの「ブレス・ユア・ブレス」。この曲の考察とかはネットの海に腐るほど落ちているしそれこそ作った本人がインタビューでこの曲の思いとかを語っているのでそちらを見ていただくとして、自分は何よりこの曲がライブで歌われていることが衝撃でした。

今やもう 誰の目にも同じ ひとりの人間
もう君に 僕なんか必要ない
僕に君も必要ない

こんな歌詞をライブで聞かされるの、辛すぎるでしょ。さらに初音ミクはこの曲を歌いきった後、こんなことを言ってのけたのです。

「みんなの歌や声援のおかげで、私は今ここにいられます。本当にありがとう!」

これはライブ本番中で正気を失っている当時の自分でさえ耳を疑ったことを覚えています。さっきそれを歌っといてこれを言わすか。これじゃまるで観客でありファンであり人間である自分たちがものすごい皮肉のネタに使われたみたいじゃないか。


もちろんライブの最後に感謝を述べるのは普通のことです。これを作った人もそこまで深くは考えてはいないでしょう。しかし私にはそれがこの後ずっと深く刺さることになります。

つまりこういうことです。あんなにリアルに歌って踊っているということは初音ミクは実在している。しかしあれを歌った後にあんなサイコパス(?)なことを言うやつはおおよそ人間じゃない(少なくとも人間としての感情があるとは思えない)。

じゃああそこで歌って踊ってた「初音ミク」は一体何なんだ???

こう思ってしまったんですね。


いやおかしいだろ。

まず前提がおかしい。さっきから言ってるとおりマジカルミライで歌って踊っているミクさんはスクリーンに投影されたものであり実在しているはずない。そして当然映像なので人間の感情なんてものは持ってるはずがない。つまりステージ上で「初音ミクの映像」が何を言おうが別に問題ない。万事解決。おわり。ここまで読んでくれてありがとうございました。








とはならんのですよ。

それを認めてしまうと僕たちは「ただの映像」を見せられて大熱狂してたことになります。その通りです。その通りなんですがこれだとあまりにも自分たちが惨めすぎる。

たとえば同じ映像でも映画だったらそれを演じている役者がいる。もしくはアニメの画を書いた人がいてそれに命を与えている声優がいる。近頃はVtuberもライブをするそうですが(自分も花譜ちゃんのライブをYoutube上で見ました、超良かった)あれなんかもバ美肉の裏側には生身の人間がいてその人が歌ってるわけです。それに対してマジカルミライで歌って踊っている「初音ミク」の裏側には何もない。初音ミクは元をたどればPC上で動くプログラムなのですから。どこを探してもステージ上に人間の姿は見当たらないわけです。


これはちょっと言い過ぎで、実際にはステージ上にはバンドマンの方がいますし、初音ミクを歌って踊らせるような映像を、それこそ実在しているように見せるためにプログラマーやエンジニアの方がとてつもない努力をしているわけです。上の文章はそれらの人々をむげにする意図はありません。

要約するとこういうことです。先ほどから何度も言っているようにマジカルミライのステージで踊っている「初音ミク」はそこに実在しているように見えた。しかしそこにはあってしかるべき「生身の人間」の面影があまりにも薄いのです。人間が作ったものという実感が薄い。なのにそれに私たちはそれに大熱狂させられる。それに振り回されている。これがなんか気持ち悪い。私が一番言いたいのはこれです。



これは「ブレス・ユア・ブレス」の曲の内容にも関わってくることなんですが、初音ミクはもともと自分の言いたいことを曲に乗せて代弁する存在であったのに、長い時間にわたってとても多くの人から初音ミクに対して様々な人が様々な感情を投入していった結果、初音ミクというだけで一つの文脈、固定観念ができてしまった、つまり「今やもう誰の目にも同じ一人の人間」になってしまった。そんなものは自分の感情を乗せるのはそぐわなくなってしまったので「もう君に僕なんか必要ない 僕に君も必要ない」という風にお別れを告げるという内容なんですね。つまり今の初音ミクにはそのように本来いるはずの背後の人間を覆い隠してしまえるほど絶大な存在になってしまったということです。このこともこの不気味な感覚の原因の一つかもしれません。


ではその薄い人間の存在を無視してしまっても良いんでしょうか。そうじゃないと思うんですね。それだと本当に「ただの映像」を見せられて大熱狂する人になってしまうんですよ。さっき「惨めすぎる」って言ったのはそういう意味です。やはり背後に人間もちゃんといる、そう思った方が自分たちも安心します。


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じゃあ結局「初音ミク」ってなんだ?

これに対して自分はこう言いたい。「お前あれだけが初音ミクじゃないだろ」と。ふとマジカルミライから目を離してみるとあちらこちらにいろんな初音ミクを見ることができるわけです。ニコニコ動画上で名も無い誰かが作った曲を歌う初音ミク。Twitterの神絵師に描かれる初音ミク。どこかの大企業とコラボして広告塔としての役割を果たしている初音ミク。一番身近なところだと、この記事を編集している自分のPCの中にいる初音ミク(早くお前は曲を作れ)。このようにいまやいろんなところにいろんな形で「初音ミク」は存在している訳です。そういう風に考えるとあれは「マジカルミライ2019の初音ミク」であって、あれが考えるきっかけになったとはいえあれが全てでは無いじゃないかというわけです。

何かで初音ミクを知って好きになる。そうすることでそのいろんなところにいる初音ミクがまぁ大雑把に自分の好きなものの中に含まれるわけじゃないですか。そんな感じでいろんなところから誰かの人生を見守って、あるいは支えて、あるいは大きな変化をもたらすような存在、それが初音ミクなんだと思います


まとめ

自分は初音ミクが本当に好きなので、初音ミクのことを悪く言うことができません。たまにボカロ衰退論とかを今更持ち出して今の業界のことを悪く言う記事が目に入ってしまうことがあるんですがそういうときは腹が立ちます。今回のマジカルミライを見て、いろいろ考えた結果いろいろなものがより一層好きになりました。とくに和田たけあきさんは多分一生ついていきます。

自分のご都合主義かもしれないけれど、初音ミクがそんな優しい存在と思えたらなんか嬉しいじゃないですか。そうであってほしい。みんなも初音ミクを好きになろうな。

これにてこの記事は(本当に)終わりです。ここまで読んでくれてありがとうございました。

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で、結局初音ミクってなんなんでしょうね。わからん。

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