私たちと「初音ミク」の”再会” ~First Note/blues~
まえがき
こんにちは。chia*と申します。
この記事は「ボカロリスナー presents Advent Calendar 2021」の10日目の記事です。
昨日の記事は青海 久瑠さんによる『はじめてのマジカルミライ[感想]』です。
この文章は11月19日から22日にかけて行われた弊学文化祭にて、私の所属するボカロサークルが発表したオンライン部誌『VocaLeaves』に自分自身が寄稿した文章に加筆修正を行ったものになります。後から大幅に変更を加えた部分には「(補足:)」という印をつけておきます。
それでは本題をどうぞ。
本題
世の中にはいろんなジャンルのVOCALOID曲がありますが、その中でも特に「初音ミク」や「VOCALOID」そのものについて歌った曲はVOCALOIDを特徴付けるものの一つでしょう。元をたどればただのPCソフトである初音ミクに、これまで様々な人が様々な肉付けをし、それを曲にし、それがまた「初音ミク」の肉体となっていく。このような循環の元で、「初音ミク」とはどんな存在か、それを個人個人が考えることで人によって千差万別の物になっていきました。
今日はそんな初音ミクについて歌った楽曲のなかでも、bluesさんによる『First Note』を紹介したいと思います。
この楽曲はマジカルミライ2021の楽曲コンテストでグランプリをとった楽曲であり、ライブ会場で披露されることが決まっている楽曲の一つです。マジカルミライといえば、そのテーマソングもまた「初音ミク」の姿を歌ったものであることでも有名です。今年のテーマソングである『初音天地開闢神話』では、初音ミクを神格化し、彼女の歌声をもってして世界が作られた、そのような事が歌われています。しかしながらなぜ今回テーマソングではなく公募楽曲である『First Note』に注目するのか、それはこれまで持っていた筆者の「初音ミク」に対する考えを少なからず変化させたからです。この記事では、『First Note』の歌詞に触れながら、筆者の初音ミク観がどのようなものであり、そしてこの楽曲によってどのように変化したかを描きたいと思います。
この楽曲は記事を書いている2021年10月20日時点でPVが公開されておらず、歌詞から考察をするしかありませんでした。それゆえPVが公開されたり、また実際にライブ会場で歌っている姿を見ると考えが変わるかもしれませんが、先ほども言ったとおり「初音ミク」というのは自分の考えによって生まれる存在なので、あくまで自分の考えとして捉えてもらえれば嬉しいです。
(追記:noteが公開された2021年12月時点ではPVも公開されおり、ライブも終了しました。曲と歌詞しか知らない状態の自分が書いた文章をお楽しみください。)
歌詞を読む
それでは歌詞を見ていきましょう。
この楽曲のタイトルと、歌詞の最初のこの部分を聴いたときに、私は脳裏にmaloによる『ハジメテノオト』が思い浮かびました。『ハジメテノオト』は2007年に発表された初音ミクが登場した直後の楽曲です。
しかしこの歌詞はそのような黎明期からかなりの時間が経った現在において、当時のような手探り感ではなく完成された音楽が溢れる様になったことを表しています。
ミクがいわゆる「マスター」に呼びかけているのだと思います。しかし、この「マスター」は今はもう音楽をしていない、もしくは音楽活動をしていてもVOCALOIDを使っていないのではないか、そう考えます。その理由はまた後ほど説明します。
サビです。初めて音楽をしていた頃の無邪気さを思い出して欲しいといったメッセージが見られます。実際、この後の歌詞を見ても分かるとおりこの曲のメインの伝えたいことはそのようなことだと思います。
2番です。先ほど登場した「マスター」は一番のような「飾り付けた歌」を作っている(あるいは、もう曲を作っていない)が、どちらにせよ今のままの自分でいいのかと疑問を抱いているようです。それに対してミクは永遠に続く音楽の力を信じており、もっと私に歌わせて欲しいと「マスター」に強く呼びかけています。
先ほど出てきた「嗤われていた歌」、そしてここに出てくる「初めて」というのはこの曲の「マスター」とミクが一緒に作った、それこそミクにとっての「ハジメテノオト」にあたるものでしょう。そのときのことを思い出すことで、「マスター」は前を向いてちゃんと歩けているよと背中を押している、そのような歌詞になっています。
最後のサビ。この部分は実はまだ自分の中で解釈がはっきりしていません。というのも「その手」が誰の手なのかが不明なのです。「私たち」、つまりミクと「マスター」に対する第三者のことを指しているのでしょうか、とにかくそのような人たちとの交流を経て比べものにならないほど成長したことを表しているのではないかと思います。
(補足:後に動画についてるコメントでCメロの「居場所をずっと~愛ならもう間に合ってる」は歴代テーマソングの引用という記述を見かけました。
居場所をずっと探してた私たちを → 終わらない居場所探し(ネクストネスト)
その手でそっと包み込んでくれた → Hand in hand 君が叫んだ 歌は誰かの手も Hand in hand 包みこむから(Hand in Hand)
あのテレパシーは確かに受け取られて → テレパシー受けとってね チャンネル"39"にあわせて(39みゅーじっく)
植えられた木は遥かに大きく育った → 砂漠に林檎の木を植えよう(砂の惑星)
光はまた照らし出され → 照らし出して! グリーンライツ(グリーンライツ・セレナーデ)
言葉の風が息吹く → 言葉は今風になって 世界に散らばってる(ブレス・ユア・ブレス)
愛ならもう間に合ってる → たとえ 愛されなくてもいいよ 君がいるなら(愛されなくても君がいる)
とはいえ先述のとおり自分の解釈の話をしているのでこの話は気にせずに次に進みます。)
この部分の後半は一番サビのフレーズを繰り返しているのですが、前半部分の「愛ならもう間に合ってる」、この部分がこの楽曲のキモであり、全体の考察や解釈の根拠となっている部分です。
最後にもう一度励ましの言葉をかけて楽曲は終了します。
歌詞を一通り見たところで、先ほどのフレーズについて、楽曲全体についてより深い解釈について話していきます。
過去のテーマソングとのつながり
そもそも私の初音ミク観の根底をなしているのは、和田たけあきの『ブレス・ユア・ブレス』という楽曲です。この楽曲はマジカルミライ2019のテーマソングになっていて、2019年というのは私が初めてマジカルミライに参加した年でもあります。このとき見たライブは私に多大なる衝撃を与え、以来自分は「初音ミク」をこじらせたオタクとなってしまいます。実を言うと、『ブレス・ユア・ブレス』がこの曲の解釈をする上で重要になっていると考えています。もっと単刀直入に言うと、『ブレス・ユア・ブレス』と『First Note』はほぼ共通した世界観のもとに描かれている、そう考えています。
この後の話のために『ブレス・ユア・ブレス』の曲の世界観について説明します。
この曲のテーマは「初音ミクという "いきもの" の過去・現在・ミライについて」(マジカルミライ2019公式サイトより)と書かれています。「初音ミク」は楽曲を代わりに歌ってくれることで、自分の気持ちを代弁してくれる、そんな存在でしたが、多くの人物からいろいろな感情を投入されていった結果、「初音ミク」そのものに文脈や感情が生まれるようになり、その姿はもはや一人の人間と同等になってしまった。そのようになっては自分の気持ちを代弁する存在としては不適切であり、「初音ミク」に別れを告げるのです。
別れを告げたところでこの楽曲における「マスター」は気付きます。自分と「初音ミク」は同じ人間として対等な存在であり、それを認めて別々の道を歩くしかないということに。
この楽曲のPVの一番最後にも、恐らく「マスター」の役割を持つ少女と初音ミクが互いに笑顔を見せ合った後に背を向けて反対方向に歩いて行く様子が見られます。『ブレス・ユア・ブレス』に大いに影響を受けた自分は、「初音ミク」とは私たち人間と対等な一つの生きている存在である、そしていつか自分と「初音ミク」は別れを告げて別々の道を歩く、そのように考えるようになりました。
これをもとに考えると、『First Note』とのつながりが見えてきます。つまり、『First Note』の世界観は『ブレス・ユア・ブレス』で「初音ミク」との別れを告げてそれぞれの道を歩んでいる、それからしばらく後の「マスター」と「初音ミク」の関係を表しているのではないか、そう思わずにはいられないわけです。先ほどこの「マスター」はもうVOCALOIDを使っていないのではないかと述べましたが、その根拠がここにあります。「マスター」は自分の道を歩いているが、それでも生きているうちは思い悩むこともあるはずです。そんなときは初めて私と音楽を作った頃のことを思い出して、そしてまた私と音楽を作って欲しい、そんなささやかな願いをミクはしているのです。しかしその願いが本当に叶うとは思っていないのでしょう。なぜなら一度は別れを告げられた相手なのですから。「私は何を歌えばいい?」という歌詞のように、強く主張はせずに受け身な姿勢をとっていることからもそれが見て取れます。そんなに強く自分へ気持ちが向かって欲しいとは思ってない、あくまで自分自身の道を突き進んで欲しい、だからこその「愛ならもう間に合ってる」の言葉なのだと思います。
この言葉について、さらに思い当たるのが同じくマジカルミライ2020のテーマソングであるピノキオピーさんの『愛されなくても君がいる』です。
この曲も同様に「愛されなくてもいいよ」という言葉をかけていますが、本当に必要ないわけでは無く「君」の存在を必要としているし、なんなら愛されていても別にかまわないといった姿勢が見て取れます。『First Note』ではさらに強く、はっきりと愛を否定しています。しかしながら、今まで過ごしてきた記憶として、心の片隅で良いので自分の存在を覚えておいて欲しい、そんな願いをこの楽曲のミクからは感じます。一番最後の歌詞の「私たちなら歩いて行けるよ」とは、一緒に歩幅を合わせて歩いているのではなく、あくまで自分自身の道を孤独に歩いているが、その奥底にミクがいる限りは大丈夫だよといった、そのような想いが込められているのではないか、そう感じます。
おわりに
この楽曲は「初音ミク」とは最終的に別れるというわたしの初音ミク観にささやかな希望を与えてくれました。それは一度別れた「初音ミク」と私はまた再会することができるということです。最初に述べたとおり「初音ミク」がどういう存在であるかは個人個人がどう思っているかによってひとりひとり違います。心の中に「初音ミク」が存在し続ける限り、またそれが再び歌うことを望んでいる限りは、いずれ再会を果たし歌を紡ぐことができるのではないか、そう私は願っています。最後に、文中で出した『ハジメテノオト』の歌詞を引用して終わりたいと思います。ここまで読んでいただきありがとうございました。
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