癒やしのフェミニズム
私はフェミニズムを学んでいる。場所は大学ではない。
大学でない理由はいくつかある。一番大きな理由は大学の授業として行われるフェミニズムの授業には限界があり、ただでさえ人気がない授業なのでシラバスの計画書の段階で攻めた内容が却下されてしまうからだ。大学では万人受けする優しいフェミニズムの内容しか学ぶことができない。
万人受けマジョリティのフェミニズムとは、ヘルシーな天丼、眠眠打破、ダイエット甘味料、まったく役に立たないとは言わないが、その存在自体に大いなる矛盾をはらむものと並ぶ。むしろ、昨今のそうしたマジョリティ女性のためのフェミニズムが、本当に差別的な扱いに沈んでしまいがちな人をより深く沈める原因になっている。
大学ではないとはいえ、ちゃんと対価を支払って学んでいるので、講師もガチだし授業もガチ。本当に学びたい人しか集まってこない。
【素朴な質問】という形の無邪気な差別発言も一切許さないガチ勢の講義の中で、私はフェミニズムによって自分が癒やされているのを感じる。
どういうことかというと、かつて自分が感じた違和感や傷つきに、エビデンスつきで名前がつけられるからだ。
例えばこうである。
私はド田舎で新入社員であったときに、上司から求められる報告が私の口からだと伝わらないことに気づく。
「これはAでした」「ええ?本当に?もう一度調べてきて」
(調べ直す)「Aです」「いいや、自分で調べてくるよ」
(調べてきた)「違っていましたか?」「いや〜…Aだったよ」
(私の話しを信じる気がないなら、そもそも別の人に頼んでは?)
こうした現象を引き起こすものをバイアスと呼ぶ。男女関係なく誰にでもあるもの。
しかし、あるカテゴリに属する集団には頻繁に引き起こされる。属性は性別であったり、年齢であったり、出身や国籍だったりする。
多くは本人の選択とは関係なく所属し、変更不可のものが多い。
こうしたことはバイアスを持つ人間の眼差しかたの問題であるにも関わらず、不利益を被った立場の弱い人間の責任にされることが多い。
差別がそのような構造なのだと説明されるまで、私は信用されないのは自分の落ち度だと思っていた。現象に名前がついて論理的に説明されると、少なくともそれ以上自分を責めないで済む。
癒やされているのは私だけではないようで、講義が終わった後の質問タイムでは、講義内容により、感情が大きく揺さぶられてしまう人もしばしばお見かけする。
結婚も出産もしなかったのに、子どもに関わる仕事をしていた女性が言った。「定年するまでずっと私はこの仕事をする資格がないのではないかと思っていた。子どもをひとりも育てたことがないのに、子育てなんかできるのかと、熱心な母親になればなるほど私にそのように告げてきた」のだと。
ある男性は言った。「私が性暴力にあったのだと訴えても、周囲の人も、警察もそれは大したことではないし、あなたを救う法律はないという」
今は前者ほど赤裸々な差別発言をする母親は少なくなったのかもしれないけれど(少なくとも公的な場でその発言をしたならば、謝罪させることは可能そう)後者は現在進行系なのである。
だから、”安全”な場で、傷ついた自分を誰かに肯定してもらい、過去に名前をつけて整理していく。起こったことは変えられないけれど、どう整理するかは自分でコントロールできるかもしれない(できない人ももちろん大勢いる)そんな一縷の望みをフェミニズムに託した人たち、様々な回復のフェーズにいる人がいて、私は毎回胸が熱くなってしまうのだ。
だから、大好き、フェミニズム!!
そもそも、フェミニズムって「性別を根拠とした差別的な取り扱いの撲滅を目指す運動」が、概ね正しい定義なのだと思うけれど、あまり厳密ではない。
noteやXでも、自己中心的なもの、女性を盲目的に弱者と定義し自分に都合のいいフェミニズムをかざす人も多い。そういう自称フェミニストは、よりマイノリティの立場にある人をいとも簡単に踏み潰す。私はそういうフェミニズムは嫌いである。
世界を男と女の2つだけにわけて運用したら、こんなことになってしまっているわけだけど、フェミニズムはその世界をつぶさに観察し、一方的な構造を是正しようとするだけじゃなくて、すでに傷ついた人を癒やしたり、誰かの祈りだったりするものでもあるんじゃないかと思っている。絵を描いたり踊ったりするようなことに並ぶ、結構ロマンチックな営みだと感じている。