おいしいご飯を食べるため。
ずいぶん昔、どういうシチュエーションだったか忘れてしまったのだが、「人間って何のために生きているんだろう」と問われて「おいしいご飯を食べるためじゃないかな」と答えたことがある。特にずっとそう思ってきたわけではなく咄嗟に口から出ただけの言葉なんだが、我ながら意外と真理なんじゃないかと思って、その後も使い続けている。
けど、その「おいしいご飯」って何だろう。そのときは軽い気持ちで言ったけど、その心は何だろうと、だいぶ後になってから改めて考えてみた。
まず、今までに食べていちばん感動したものを挙げてみようか。
大昔に南紀白浜の温泉旅館の朝食で食べた土瓶蒸し。あれは、あまりの衝撃でおちょこを持ったまま椅子ごと後ろに倒れるかと思った。
そして、やはり大昔に山形の焼肉屋さんで食べたミノ。さすが山形牛だけあって他のお肉ももちろん美味しかったのだが、さくっと噛み切れるミノなんて、それからウン十年経った今もお目にかかっていない。
この2品はいまだにうちでたびたび話題に上る、我が家的伝説の食べ物だ。
けどこの場合、そういう特別なのではない気がする。ましてや高級食材や豪華なコース料理でもない。なんというか、もっと身近で、ささやかで、食べるとちょっと笑顔になれるもの。
この場合、普通の人は、子どもの頃に母親がよく作ってくれた得意料理的なものを挙げるだろうか。ところがワタシはそれも思いつかない。もちろん、何度も食卓に上ったものはある。ただそこにまつわる思い出というものが、まあ詳しいことは伏せるが、あまり幸せなそれではないのだ。母親にはお菓子を作る趣味はなく、なんなら我が家でお菓子作りをするのはワタシだけだったので、そういう記憶もない。
そんなワタシが「人が生きる理由はおいしいご飯を食べるため」などと口走った、その考えに至った理由は、おそらく義実家にある。東京のど真ん中で暮らし、仕事柄海外へ行くことも多かったためか、外国の食べ物に全く抵抗がなく、国内でも各地に行きつけの店があった。今の家族と結婚したおかげで、関西の典型的なベッドタウンの中流家庭では知り得なかったものを食べる経験ができたのは確かだ。そして何より、食卓が賑やかだった。
何がご飯をおいしくするのか。それは、素材や調理法以上に、精神の安定というか心の平安というか、そういうものなんだと思う。陳腐な言い方だけれども、やっぱりそれに尽きると思うのだ。
気の合わない人たちに混ざって豪勢な料理を食べたっておいしくn…いや味はいいだろうけど、楽しい食事にはならない。ブラック企業の上司の説教やらセクハラ発言やら聞かされる飲み会なんて、ただの苦行だ。
大したものではなくても、お一人様でも、心が満たされていれば何だっておいしい。締切間際にかき込む卵かけご飯でも、気の合う同僚とお昼休みに食べる社食の定食でも、仕事終わりに買って帰る唐揚げ弁当でも、受験勉強中の夜食のインスタント焼きそばでも。
おいしいご飯を食べるためには心理的な安定を。なんだか小学生の作文みたいな結論に至ってしまったが、けっこう真理だと思うし、これからも機会があれば言っていくと思う。
皆さんは、おいしいご飯、食べているだろうか。