母の事
ちーふぁです。
最近、夢に自分の家族が頻繁に出てくるので、そろそろちゃんと向き合ったり、考えたりする時なのかなって思いました。
私の家族は、全員変です。
良い言い方をすれば、複雑な家庭環境に入るほうだと思います。
ネタだと思って生きてきましたが、ネタだと思って話をしていたら人を不快にさせちゃった事があります。
読みたい人は読めば良いし、読みたくない人は読まないでいい内容です。
色んな家族、色んな人生がありますから、私は特別におかしいとは思ってはいないんですけどね。
こういう家庭もあるんだなぁって一例だと思ってください。
私の母は4人姉妹でした。
群馬の田舎のほうで、赤城山に近かったそうです。
私の祖母にあたる女性は、1番下の娘だけを連れて出て、再婚したみたいです。母からは私の祖父の話を聞いた事は、ほとんどありません。
ただ、幼少の母は姉妹同士で「どれだけ自分達の父親が立派だったか」という話をしていたみたいです。
きっとほとんど子供の妄想だと思います。
その当時、存命だったかはわからないですが、会えなくても、信じたかったんでしょうね。
自分達には素敵な父親がいた事を。
そんな環境だったので、母方の祖母、私から見たら曾祖母に姉妹と一緒に育てられたそうです。
大変に厳しい方で、家事をしないと学校に行かせない!と学校の鞄を隠したり、線香の火を爪に押し付けてお仕置をするような、現在では嘘みたいな鬼婆だったようです。
小学校くらいって、永遠に続く気がするほど1日が長く感じましたよね。小学校の6年て今思い返すと15年分くらいあったと思いませんか?
そんな窮屈な暮らしをしていたら、子供心に救いが欲しかったと思います、絶対に。
きっとそんな気持ちがあっての事だと思います。
母が姉妹と一緒に何kmも歩いて、自分の母親を訪ねた事があったそうなんですが、小遣いを渡されて追い返されたと言っていました。
悲しいですよね…。
どんな想いを抱えて、長い道のりを歩いて帰ったかと思うと、私泣いちゃいそうですよ。
どれだけ姉妹で精神的に支え合っていたのか、今ならわかります。
中学を卒業した母は、住込みで産婦人院で看護助手をしながら、看護学校を卒業したと聞いています。
その頃、世間で言うところの学会員になったようです。
頼れる肉親がいない中で、私の母が唯一信じられるものが、宗教だったんでしょうね。
はっきり言って私は幼少の頃からお経を唱えるだけで、何でもうまく行くなんて事あるわけねーだろって思っていたし、神社やお寺に行ってはいけないとか、
学校の社会の授業で新聞の切り抜きが必要な時に宗教新聞を持っていくとか、母が選挙前になると例の政党に投票してくれと、全知人に連絡をしたり、自宅を訪ねて歩く事が、心底嫌でした。
子供心にうちの母は一般的な人の感覚と違うってわかっていました。
そして、母は本当にかなり熱心な信者で朝・夕としっかり読経を行っていました。
でも、私から見た母は、何も救われていなかったと思います。
私が言うのも何ですが、男運が悪く、山の中で輪姦されそうになったり、変質者に追い回されたり、よく警察沙汰にならなかったなって感じです。
父親不在の女性は、変な男に引っ掛かりやすい気がします。(ごめんね、偏見…)
しかしながら、母のサバイバル力だけは、私も受け継いでるかも知れないですね。
私の祖母にあたる女性がそうだったように、私の母も何処までも女でした。
母親よりも女って感じの人です。器量は悪めなのに…。
そんな母は20代前半で結婚をし、25歳で兄を産み、26歳で姉を産みました。
私、その年齢の時はフリーターみたいな生活で、それを考えるとうちの母すげぇってなるんですが、そちらの旦那さん、今で言うところの半グレか組員の方だったらしく、自宅で白い粉を使い出しちゃったものだから、さすがに母も離婚を決意したみたいです。
でも、離婚後も元旦那さんにお金を工面したりしてたと聞きました。ダメ女過ぎる…。
そんなぶっ飛んだ女という生き物の母でしたので、
いくつか強烈なエピソードがあります。
小学生頃って、まだ男女混ざって遊ぶと思うんですが、それが性的な遊びをしてると決めつけて遊びに行くのを反対されたり、中学2年の時にインフルエンザで早退した私に言い放った一言が「お前、妊娠してるんじゃないだろうね!?」だったとか。彼氏すらできた事のない思春期の娘に…。
あと、まあ今もですがあんまり胸の発達がしてないと言えど、中学3年にもなるとさすがにブラジャーを着けたいわけですが、「お前には必要ない。スポブラで充分!」って言われましたね。
公立高校受験の前日に、「公立落ちて滑り止めの私立に入学する事になったら、身体を売って学費を払ってもらうから!」って真顔で言われたのも、忘れられません…。ちなみに普通に、公立高校に受かりました。
母は女なので、私が女として成長する事をとにかく毛嫌いしていました。
男女の行為も汚らわしいものとして、教育されていたので、その呪縛から私が解かれるまで、結構長い年月がかかりました。
例え彼氏とであっても罪悪感がするんです。いけない事をしてしまっているっていう。
私が、今でも信頼を置いた人としかセックスができないのは、母の教育の賜物ですね。
奔放な性生活は、私には向かないです。
もちろん母との良い思い出もたくさんあります。
私を妊娠した母が父と再婚し、妹が生まれるまで、毎晩絵本を読んで寝かしつけてくれた事、母の髪の匂いが大好きで親指を吸いながら、母の髪の匂いを嗅ぐのが大好きだった事、どんなにケンカをしても毎日お弁当を作ってくれた事、毎晩何品も手作りの夕飯を作ってくれた事、大学受験の時にうちの娘は成績が良いと人に自慢してくれた事(実際は偏差値55くらいです…)
とても愛情深い人でした。
本当にそれだけは、言いきれます。
ほんとぶっ飛んでましたけどね。
タバコもSEVENSTAR吸ってましたし。
私は、あれ吸うと具合悪くなります…。
母は、私が18歳の時に子宮癌が見つかり、手術後1度退院したもののリンパ節への転移が見つかり、脳梗塞も併発して、私が20歳になる前に亡くなりました。
享年54歳でした。
当時免許を持っていなかった私は、頻繁にお見舞いに行く事もできず、未熟過ぎる10代で何一つ親孝行ができなかったんです。
母はとてもとても苦しんで、亡くなりました。
だから、宗教なんて本当に何の意味もない。
痛みを和らげる為のモルヒネで夢を見ていた母は「学校に行きたい…。」って言ってたんです。
だから、大学はちゃんと卒業しなきゃなって思って、写真学科歴代最下位かどうかは知らないですが、とりあえず卒業だけはしました。
あと13年で母が亡くなった年齢に、私はなります。
もう母が不在の人生の方が、いつの間にか長くなってしまったんですね。
今の私の年齢の時の母は、6歳の私を一生懸命育ててくれ、愛してくれました。
たくさんの絵本を読んでくれた事は、私の原点になっているし、女性が喚くと男性を逆上するのを反面教師として教えてくれたし、二重整形は言わなければバレないって事も教えてくれました。(私は父似の天然二重です)
母が亡くなってから、母の死について泣いた事は1度もないです。
ただ、母が楽になった事に安心しています。それは今もです。
お母さん、私の事は見守らなくても大丈夫。
苦しんだ分、ゆっくり休んでください。
私が死んだ時に会えるなら、私はあなたより歳上です。
会えた時は、あなたが大好きだったKIRINのビールで乾杯しましょう。
本当に最後になりましが、私を産んで育ててくれて、たくさんの愛情をくれてありがとう。
それは時にかなり歪んだものだったけれど、愛されていた事を、私はちゃんとわかっています。
誰にも話した事のない母の話です。
笑ったり、引いたりしてくれると嬉しいです。
読んでくれた方、ありがとうございます。