私のその言葉の行方

どーも、皆様、ちーふぁといいます。

今からちょうど1年前にmonochrome contestというミクチャという配信アプリでのコンテストに参加していました。
今思えば、相当おかしい事をしてたなって思います。
私らしくなかったな、無理してたなって感じです。
何千人もいる配信者さん達は、本当に素晴らしいです。
ちゃんと自分をわかってる、見せたい自分を出す事ができている。

個性を競うコンテストだったのですが、私らしさ=配信を行う人間ではないという事は、良くわかりました!!!
最期のほうまで残らせてもらえましたが、50人中19位という結果でした。
まるで私の人生の立ち位置のようだと思います。

こんな私でもファンの方もいてくださったので、なんだか名残惜しくて、ミクチャのアプリを消せないでいましたが、iPhoneのアプリの整理をするついでに、さっき消去しました。

新しいものを手に入れる為には、古いものを捨てなければいけないのです。
1人の人間が持てる荷物の量は限られているので、新しい流れを作るためには、スペースを空けてあげないといけないと思っています。

2022年ももう2ヶ月半で終わりですが、2021年と違って自分と向き合う時間が多かったです。
2020年〜2021年に起きた大きなトラブルの決着も付けないといけないので、メンタルがかなり落ちたりもしてます。

1人で宮崎へ古事記の縁の地を巡ったり、ホットヨガに通い始めたり、電動キックボードを買ったり、1人で飲みに行く事もあんまりしないようになったので、2021年とはお金の使い方が違うなぁと思います。

もともと友達も少ないので、月に1〜2回本当に仲良い人と遊ぶくらいで、それ以外はお金を稼いだり、ヨガに行ったり、音楽か映画か小説か、たまに写真やって、気になるお笑いライブに行ったりしてます。

私、社会的な保障が全くない代わりに、今まで生きてきて、今が1番自由なんですね!
ほぼ、その日暮らしみたいな生活ですが、多分人生で1番充実していると思います。

自己責任の上に成り立っている今の生活です。
自己責任というと、私は自分の発信した写真や言葉の着地点が気になったりするのです。

私が生まれた時から知っている、とても聡明で優しく、穏やかな、私にとっては祖父のような存在の方がいるのですが、私が二十歳くらいの時に教えてくれたんですよね。

「ちーちゃん、自分の投げた言葉が相手にどう届くかを考えられる事が大人なんだよ」って。
私が今でも、ずっと大切にしている言葉です。

私の写真は、所謂ところの私小説で、何気ない暮らしの中の残したい瞬間、誰かに届けたい瞬間を切り取っています。

学生時代、私は自分の写真が大嫌いで、見るのも嫌でした。技術不足の上に、ただただ課題のために無理矢理シャッターを押していて…。

でも、今は自分の写真が好きです。
憧れていた映画の恋愛寫眞に出てくるような、日常の中の輝く瞬間を、ちゃんと見つけらるようになったから。

大学の入学試験の面接で言われて、心が抉れた言葉は、「自己が確立できていない人間は、本当は写真を撮ってはいけないんだ。」です。
20年の時を経て、私はやっと自分らしさを見つけられたのだと思います。
まあ、ちょっと時間かかり過ぎたかも知れないけど…。

私の写真を観て、本当に少しでも私の感じたその瞬間の輝きが、誰かに届けば嬉しいと思っています。
真の芸術は、作者の意図が真っ直ぐに見る側に伝わるものらしいです。
私は、そのレベルには達する事はできないかも知れないけれど、私の見せたい世界が、誰かにとっても輝くものになれば嬉しいです。

もっと難しいのは、私の発した言葉の行方です。
今こうして連ねている文章も、私の伝えたい事は、全然届いていないかも知れないからです。
(そもそも誰も読んでいないという事は、置いておいて…)

私が放った言葉は、私の思う通りに届いているのでしょうか。
それすら確認する術はなく、私は時々怖くなります。

考え過ぎた挙句、冷たい言葉を言ってしまったり、気を遣い過ぎて誤解をさせてしまったり。
重すぎる気持ちを、冗談めかして言ってしまったり。
だから、私は時々、何も話せなくなったり、メッセージを打つのに時間がかかったりしてしまいます。

2021年にした配信の中で、私はたくさんの話をしてきたけれど、誰もそれを覚えてはいないでしょう。
言葉は消えていくものです。
特に、一般人の中の下のほうに属する私の言葉などは、尚更です。

それでも、私が誰かからの言葉に救われたり、傷付けられたりしたように、消えない言葉も、どこかにあるのかも知れません。
そうであってほしいと思います。
誰の事も傷付けたくはないけれど、悪意には必ず悪意で返すので、それ以外を除いて。

最近、よく利用する駐輪場の管理人をされてる高齢男性の言葉選びが、とても素敵なんです。
私の住んでるところは、電動キックボードは珍しいので、私の事を覚えてくださっています。

キックボードは、原付と違ってロックがかけられないので、盗まれたりしないようにいつも心配してくださって、あちらの駐輪場なら自転車扱いになって金額が安いかも知れないと別の駐輪場を教えてくださったり、駐輪場のいち管理人とは思えない気遣いと優しさに満ちています。

その方とお話をすると、いつも本当に心が暖かくなります。1つのお仕事の中で、幾つもの付加価値を付けれる人というのは、本当に人間性が素晴らしく、私は心から尊敬します。
どんな風に生きて行けば、あんな風に人を優しい気持ちにできるのでしょうね。

私は自分の人生がちょうど折返し地点だと思っていて、残りの人生をどう生きていこうかって事を考えます。
その時に思うのは、自分の言葉の着地点に責任を持つという事です。

私は若い頃に、保身の為の嘘をたくさん吐きました。
学校とか仕事とか家とか、自分の失敗や不都合を隠すために、スラスラと嘘が出ました。
そう言えば、私のついた嘘は、家族以外には今まで1度もバレた事がないかも知れません。
嘘をつくなら最後までとは言いますが、その点は私はとても優秀だったと思います。

でも、もう嘘は吐きたくないなあって思います。
嘘をつくのは、その場にいない第三者の名誉とプライバシーを守る時だけでいいです。

思い返せば、母親が子供の私を大人しくさせるためだったり、元彼の保身のためだったり、誰かに約束を守ってもらえなかったり、私の嘘の記憶はけっこう、こう心にジリつくものが多いのです。
私に許しの気持ちがないだけかも知れないですが。

でも、嘘つきは、大嫌い。
だから、私は嘘は吐きたくない。
嘘をつかなくとも、ちゃんとコミュニケーションは取れますからね。

話が逸れましたが、私は、私の言葉で、伝えたい事を、なるべく正確に届けることのできる人になりたいです。
言葉の中に、喜び、怒り、哀しみ、愛情、優しさ、皮肉、心配、色々な私の思い、想い、歳を重ねる毎に短い言葉の中に、そういったものが込められたら、素敵なばあさんになれる気がします。

私の放ってきた言葉の数々は、私の手からは離れていってしまって、1人で歩いていきます。
もうこの世界からは、消えてしまった言葉のほうが、明らかに多い。
でも、もし、どこかに私の言葉が残っているのであれば、一瞬でもいい、それが、誰かのための小さな希望になれますように。

暇過ぎて、長文を書いてしまいました。
最後まで読んでしまったあなたは、暇人です。
でも、読んでくれて心からありがとう。




 









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