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それなら、私は誰にも罪を犯してないのだ。論理的アントニーと非論理的ブルータスの対比
論理的に相手を説得するのは難しく、その理由の一つは具体例をうまく提示できないことにあります。
言いたいことはすぐに浮かんでくるが、それに説得力をもたせられるだけの具体例がなかなか浮かんでこない。たとえ関係の有りそうな具体的場面が浮かんできたとしても、主張とうまく整合性がとれない。「この具体例はなんか違う」「この具体例もちょっと違う」とえり好みしているうちに、当初の構想が頭から薄れてくる。主張そのものに自分で興味をなくしていく……。
主張を支える理由は抽象的なままでは説得力に欠けるため、具体例を提示して説得力を加えることが望ましいのですが、その具体例がなかなか考えつかないのです。
シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」では、具体例を「これでもか」と厚く、しかも即興で提示している例を見ることができます。第三幕第二場での、マーク・アントニーの演説です。
「ジュリアス・シーザー」は、ルネサンス期に生まれたシェイクスピアの作品。ローマ史に基づいた史劇です。舞台は紀元前44年のローマ。権力者シーザーの暗殺に加わったブルータスの苦悩が描かれています。シーザーが暗殺され、最後にブルータスも殺されるというストーリー。見せ場は物語中盤の二人の演説にあります。シーザーを暗殺した一派を代表してブルータスが言い訳の弁を民衆に語り、その後で親シーザー派のアントニーが民衆に弁を語る。当初アントニーは「シーザー追憶の言葉を述べる」という名目で登壇したのですが、彼は演説の中で民衆を巧みに誘導し、暗殺一派を悪者に仕立て上げます。
「ジュリアス・シーザー」については、一般に虚構がまかり通っています。それは、ブルータスが論理的に弁を語ったのに対してアントニーは感情で民衆を焚き付けた、という虚構。実際に、河合祥一郎氏は著書「あらすじで読むシェイクスピア全作品」でこう語っています。
ブルータスの演説が散文によって切々と理屈を説くのに対し、アントニーの演説は弱強五歩格の韻文で、感情に訴える劇的なものになっている。
奇怪な感想と言わざるを得ません。いったい、「ジュリアス・シーザー」のどこをどう読めばこのような解説になってしまうのでしょうか。
論理的だったのはアントニー、それに対して非論理的だったのはブルータスです。なぜなら、ブルータスはなぜシーザーを暗殺したのかを明確に述べられなかったのに対し、アントニーはシーザーが暗殺されるべき人物ではなかった根拠を、厚みのある具体例をもって演説したからです。以下、「ジュリアス・シーザー」から引用しながら論理的なアントニーと非論理的なブルータスを追っていきます。
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1.そして野心には死あるのみ。ブルータスの非論理的な演説
ブルータスはシーザー暗殺後、民衆に対して「シーザーを斃(たお)した大義名分を明らかにするつもりだ」と述べ、次のように演説しています。
ブルータス 頼む、みんな、最後まで聴いてくれ。ローマ市民、わが同胞、愛する友に告げる!私の話を聴いてその理想とするところを汲取ってもらいたい。さあ、静かにしてくれ。また、私が何より公明正大を尊ぶ男であることを信じてもらいたい、せめて私の人格にたいする日頃の信頼を想い起こしてくれ。めいめいの考えに照して私を批判する分にはなんの遠慮も要らぬ。そのよき裁き手たるために、理性の活眼を大いに働かせるがいい。この群のなかに誰かシーザーの親しき友がいるならば、その人に向って私は言う、ブルータスのシーザーを愛する心情は決してその人にひけをとらぬと。それなら、何ゆえブルータスはシーザーを斃したか、そう反問するであろうが、それにたいする私の答えはこうだ、おれはシーザーを愛さぬのではなく、ローマを愛したのである。みなは、シーザー一人生きて、他のことごとくが奴隷として死ぬことを望むのか、シーザーを死なせて、万人を自由人として生かすことよりも? 私を愛してくれたシーザーを想えば、私は涙を禁じえない。幸福だったシーザーの半生を想うとき、私の心ははずむ。勇敢だったシーザーを想い、私は心から讃嘆を惜しまない。が、野心に身を委ねたシーザーを見出したとき、私はそれを刺したのだ。シーザーの愛には涙を、幸運には喜びを、勇気には尊敬を、そして野心には死あるのみ。誰にせよ、このなかに、みずから奴隷の境涯を求めるがごとき陋劣な人間がいるだろうか? もしいるなら、名のり出てくれ、その人にこそ、私は罪を犯したのだ。誰かいるか、ローマ人たることを欲しないほど不遜な人物が? もしいるなら、そう言ってくれ、その人にこそ、私は罪を犯したのだ。誰か、おのれの祖国を愛さぬほど卑劣な男がいるか? いるなら、言ってくれ、その人にこそ、私は罪を犯したのだ。さあ、答えを待とう。
市民一同 そんな奴はいない、ブルータス、一人もいないぞ。
ブルータス それなら、私は誰にも罪を犯してないのだ。……
どうでしょう。どうしてブルータスがシーザーを暗殺したのか、その理由がこの演説では明言されているでしょうか。されていません。キレの悪い理由らしいものが述べられているのみです。
先に私はブルータスの演説に対して「シーザー暗殺の根拠を明確に述べられなかった」と書きましたが、その他にも非論理的だと評価せざるを得ない所以がいつくかあります。この際なので指摘してみましょう。
(1)ローマを愛したのである。理由自体の欠如
「根拠とは何を指すのか」は著者なり著書によって異なりますが、私は根拠を「理由を支えるもの」だと考えます。言い換えれば「具体的な理由」であって、すなわち「具体例」です。論理的に相手を説得しようとした場合、主張にはそれを支える理由が必要ですが、主張を具体例で主張を支えようとすると何の話をしているのかが分からなくなります。なので、主張の後にまず抽象的な理由を述べ、それに加えて具体例を出すと、話がわかりやすく、しかも説得力が増すのです。
例えば
主張:そこのラーメン屋にはいかない方がいいよ。
理由:店が汚かったから。
具体例:椅子は古いし、テーブルは汚れているし、トイレは目も当てられたもんじゃなかった。
こんな感じです。
「店が汚かったから」だけでも理由としては良いいのでしょうが、その後に「椅子は…テーブルは…トイレは…」と具体例を提示すれば、リアリティが出ます。かと言って、主張の直後に「椅子は…テーブルは…トイレは…」と具体例を提示したのでは、何の事を言っているのかわからなくなります。主張→理由→具体例と提示することで、わかりやすさとリアリティが両立する、つまり説得力が増すのです。
さてブルータスの演説ですが、シーザー暗殺の理由をブルータスは明言していません。理由には「なぜなら〜」や「〜からだ」という指標があれば、どれが理由なのかハッキリするのですが、そのような指標はブルータスの演説には見当たらない。明言されていないのであれば我々読者は、その理由を推測するしか無いでしょう。ブルータスは「その理想とするところを汲取ってもらいたい」と述べていますが、ブルータスの理想のみならず、シーザー暗殺の理由までも我々は「汲取らねば」なりません。
理由らしきものはこの部分です。
おれはシーザーを愛さぬのではなく、ローマを愛したのである
この演説の中から強いて理由を見つけるとすれば、このセリフが当てはまります。が、果たしてこれはシーザー暗殺の理由になっているのでしょうか。「? どういうこと?」と疑問が湧くだけではないでしょうか。
主張:ブルータスはシーザーを斃した。
理由:ブルータスはシーザーを愛さぬのではなく、ローマを愛したから。
やはり納得感はありません。斃すことと愛することの関係もわからないし、どうしてブルータスとシーザーの話の中に唐突に「ローマ」が出てきたのかも疑問。ブルータスの演説は、煙に巻かれている感が満載なのです。
まあ、答えを明かせば、「シーザーは野心を持っていて、その野心にローマ市民は苦労するだろうから、だから皆(ローマ市民)のためにシーザーを斃した」という解釈にはなります。セリフの意味するところを、演説の後半も交えて推測したのです。
(2)本当にその二つか? 誤った二分法
ブルータスの演説を読むと、彼が誤謬にも陥っていることがわかります。どんな誤謬かというと、まずは「誤った二分法」です。誤った二分法とは
二つにきっぱり分けることなどできない複雑な母集団を二つに分けてしまい、話を過度に単純化して都合のいい結論を導こうとする議論。
のこと。
ブルータスの演説から、誤った二分法を見てみましょう。この部分です。
みなは、シーザー一人生きて、他のことごとくが奴隷として死ぬことを望むのか、シーザーを死なせて、万人を自由人として生かすことよりも?
彼は
1.シーザーが生きていれば、市民は奴隷である
2.シーザーが死ねば、市民は自由である
と言っていますが、本当にこの二択しかなかったのでしょうか。「シーザーが生きて尚且つ市民が自由」という第三の選択肢もありそうなものですが……。
ブルータスはシーザー暗殺を正当化するために、第三の選択肢を外して考えました。というのも、もしも第三の選択肢があるならば、シーザー暗殺は必要なかったことになるからです。わざわざシーザーを暗殺しなくても奴隷にならなくて済むことになります。ブルータスは「市民の自由という望ましい未来を手に入れるには、シーザーは死なねばならなかった」ことを強く印象付けたいがため、状況を過度に単純化し、自身に都合の良い結論を強調してしまったのです。
(3)いわゆる誘導尋問。不当予断の問い
さらにブルータスは、誤謬を駆使して聴衆を畳み掛けます。
誰にせよ、このなかに、みずから奴隷の境涯を求めるがごとき陋劣な人間がいるだろうか? もしいるなら、名のり出てくれ、その人にこそ、私は罪を犯したのだ。
これは「不当予断の問い」と呼ばれる誤謬です。問い自体に、予め不当な判断が含まれているのです。
例えば、警察官が取調室で犯人を取り調べる状況を想像してみてください。もしも警察官がはじめから「万引きなんかしちゃダメだぞ?」と犯人に言ったとしたら、これは不当予断の問いです。まずは「万引きをしたかどうか」が問われねばならないのに、万引きしたことが前提として、すでに問いに組み込まれているからです。
もしも犯人が「自分は万引きしていない」と主張したい場合、犯人は警察官のこの問いに答えられません。もしもこの問いに対して犯人が「はい」と答えたら、それは万引きしたという前提をも認めたことになる。かと言って「いいえ」と答えたら、それは「『万引きをしちゃダメだ』ということを納得していない、聞き分けの悪い犯人」ということになってしまう。たとえ犯人が「万引きはしていないが、万引きをしちゃダメだということはわかった」という意味で「はい」と答えようものなら、警察官はその「はい」をもってして犯人が万引きを認めたことにするでしょう。
ブルータスの「このなかに、みずから奴隷の境涯を求めるがごとき陋劣な人間がいるだろうか?」も不当予断の問いに陥っているので、尋ねられた方は答えに窮するのです。
もしもこの問いに対し、「ブルータスがシーザーを斃したことに反対だ」という市民が手を上げたら、その者は「みずから奴隷の境涯を求めるがごとき陋劣な人間」という前提をも認めたことになる。
ローマ人たることを欲しないほど不遜な人物が? もしいるなら、そう言ってくれ、その人にこそ、私は罪を犯したのだ。
同様に、もしも「ブルータスがシーザーを斃したことに反対だ」という市民が手を上げたら、その者は「ローマ人たることを欲しないほど不遜な人物」ということになってしまう。
誰か、おのれの祖国を愛さぬほど卑劣な男がいるか? いるなら、言ってくれ、その人にこそ、私は罪を犯したのだ。
もしも「ブルータスがシーザーを斃したことに反対だ」という意味で手を上げたら、その者は「おのれの祖国を愛さぬほど卑劣な男」の烙印を押されることになる。
このように、ブルータスの演説には「誤った二分法」も「不当予断の問い」も見られます。彼の演説は誤謬に満ちているのです。
(4)高潔だから誤謬なのだ。ブルータスの勘違い
ブルータスはどうして誤謬に陥ってしまったのでしょうか。彼はどうして非論理的な演説をしたのでしょう。何か目論見があったのでしょうか。
おそらくブルータスは、素で非論理的だったのだと思います。ブルータスの非論理的な演説には、何の狙いもなかった。それどころか、彼は「自分はきちんと理由を説明しているだろう」という勘違いをしていた、と私は考えます。というのも、彼は公明正大な人間だからです。「ジュリアス・シーザー」の作中で彼は終始、高潔な人物として描かれています。
ウィキペディアによると、高潔とは「正直さの実践と共に、高い道徳・倫理的な原則と価値観を持って一貫し、妥協なくそれらを遵守する振る舞いを指す」と書かれており、そんなブルータスが裏の意図をもって演説をするとは思えません。
彼は心からシーザー暗殺の「理由」を述べようと思っていたのです。演説の前にアントニーに対して「一部始終を聴いてもらおう、なぜこのおれが、シーザーを斃す瞬間にもなおシーザーを愛していたおれまで、あえてこの挙に出でざるをえなかったか、そのわけを。」と言っており、理由を述べることはアントニーに対しても明言しています。民衆に対してもブルータスは、はじめに「大義名分を明らかにするつもりだ」の述べています。高潔な彼がウソを言うとは思えません。彼は演説で、自分がシーザー暗殺の大義名分を明らかにしていると思っていたのでしょう。
なのに、実際の演説では大義名分を明らかにしていなかった。それどころか「誤った二分法」と「不当予断の問い」という誤謬に陥った。
彼は高潔ではあったかもしれませんが、如何せん、論理を勘違いしていたのです。論理的ではなかったのです。
ちなみに、意図的に誤謬を使って、誤りを正しいと誤認させることを「詭弁」と言います。ブルータスの「誤った二分法」や「不当予断の問い」は、彼が高潔であり意図したものではなかったという理由から、「詭弁」ではなく「誤謬」だったと考えられます。
2.わが友であり、誠実かつ公正。アントニーの論理的な演説
曖昧な理由もどきしか提示できなかったブルータスに対して、アントニーはハッキリと具体例を列挙しています。シーザーが野心を抱いはいなかったことの具体例です。アントニーは具体例を並べ立てることで自身の演説にリアリティを加え、うまく民衆を暴動へそそのかしたのです。
(1)身代金はことごとく国庫に収めた
ブルータス 友よ、ローマ市民よ、同胞諸君、耳を貸していただきたい。今、私がここにいるのは、シーザーを葬るためであって、讃えるためではない。人の悪事をなすや、その死後まで残り、善事はしばしば骨とともに土中に埋れる、シーザーもまたそうあらしめよう……高潔の士ブルータスは諸君の前に言った、シーザーは野心を懐いていたと。そうだとすれば、それこそ悲しむべき欠点だったと言うほかはない。そしてまた、悲しむべきことに、シーザーはその酬いを受けたのだ……ここに私は、ブルータスおよびその他の人々の承認を得て、それも、ブルータスが公明正大の士であり、その他の人々とて同様、すべて公明正大の人物なればこそ、今こうしてシーザー追悼の言葉を述べさせてもらえるわけだが……シーザーはわが友であり、私にはつねに誠実、かつ公正であった。が、ブルータスは言う、シーザーは野心を懐いていたと。そして、ブルータスは公明正大の士である……生前、シーザーは多くの捕虜をローマに連れ帰ったことがある、しかもその身代金はことごとく国庫に収めた。かかるシーザーの態度に野心らしきものが少しでも窺われようか? 貧しきものが飢えに泣くのを見て、シーザーもまた涙した。野心はもっと冷酷なもので出来ているはずだ。が、ブルータスは言う、シーザーは野心を懐いていたと。そして、ブルータスは公明正大の士である。
ブルータスはシーザー暗殺の理由として、シーザーの野心を持ち出しました。なので、「シーザー暗殺は不正だった」と訴えたいアントニーとしては、シーザーの野心を否定することで、ブルータスの演説を否定することができます。
「野心」とは「物事をやり遂げようとする精神力」という意味に加えて、この場合は、ローマ市民を奴隷のように扱って独裁的に振る舞おうとする「利欲」「邪念」の意味もあり、これを否定することが、アントニーの目的です。
彼はまず、シーザーが身代金を国庫に納めた事実を披露します。身代金を自身の懐に収めることができたにもかかわらず、国庫に収めた。これはシーザーの利他的行為を意味します。「貧しきものが飢えに泣く」のを見て心を痛めたシーザーは、市民に対する思いやりからこのような行為を行ったのです。この行為に利欲は見られず、「野心」とは正反対の行いです。
(2)果たして、これが野心か? 三たび退けた王冠
みなも見て知っていよう、過ぐるルペルカリア祭の日のことだ、私は三たびシーザーに王冠を捧げた、が、それをシーザーは三たび卻けた。果して、これが野心か? が、ブルータスは言う、シーザーは野心を懐いていたと。そして、もとより、ブルータスは公明正大の士である。私はなにもブルータスの言葉を否定せんがために言うのではない、ただおのれの知れるところを述べんがために、今ここにいるのだ。みなもかつてはシーザーを愛していた、もちろん、それだけの理由があってのことだ。とすれば、現在いかなる理由によって、シーザーを悼む心をおさえようとするのか? ああ、今や分別も野獣のもとに走り、人々は理性を失ってしまったのか!……みな、許してくれ、私の心はあの柩のなか、シーザーと共にあるのだ、それが戻ってくるまでは先が続けられぬ。
続いて、王冠を退けたという事実です。シーザーは差し出された王冠を受け取らず、これを3度拒否したといいます。もしも王冠をすぐに受け取っていたならば、それによってシーザーの野心が垣間見えるところでした。王冠を受け取ることは権力を手に入れることなので、これを「野心」と言っても間違いではありません。シーザーに野心は見られなかったことの具体例です。
(3)あれほどシーザーに愛されたブルータスの刃のあと。マントル
アントニー もし、諸君に涙があるなら、今こそ、それを流すときだぞ。みんな、このマントルに見覚えがあるはずだ。俺には忘れられない、はじめてシーザーがそれを着た日のことが、夏の夕、戦場の天幕のなかで。その日、シーザーはネルヴィィ族を打ち破ったのだ。見ろ、ここをキャシアスの短剣が刺し貫いたのだ。見るがいい、この酷い傷口こそキャスカの手のあとだ。そして、これが、あれほどシーザーに愛せられたブルータスの刃のあとなのだ。
このマントルは論理色こそ薄いかもしれませんが、野心を持っていなかったことの根拠として機能しています。具体例というよりも、もはや具体的な実物です。マントルとはマントのことでしょう。マントの傷痕を聴衆の眼の前に提示することでアントニーは、シーザーは野心をもつだけの強さがなかったことを、また邪念は刺し貫いたブルータスの側にあったことを暗示しています。
(4)暗殺者どもの手に切りさいなまされた姿。
ああ、みな泣いているな、おれにはよく解る、心中、惻隠の情を禁じえぬのであろう。まさに聖なる恵みの露と言うべきだ。心やさしきものたち、その涙はただシーザーの衣の傷痕を見ただけで流されると言うのか? それなら、これを見るがいい、これこそシーザーその人だ、暗殺者どもの手に斬りさいなまされたこの姿を。(マントルを引き剥ぐ)
第一の市民 ああ、見るも痛ましい!
第二の市民 シーザー!
第三の市民 なんとみじめな!
第四の市民 謀反人ども、悪党め!
そしてマントという実物だけで飽きたらなかったアントニーは、今度はシーザーの遺体をも聴衆の前に提示します。マントを見せた後、その上さらに遺体そのものまでをも公開したのです。
これもマント同様に論理色が弱く情緒的なものですが、シーザーが野心を持っていなかったことの根拠としての厚みを演出します。たとえ野心をもっていたと仮定しても、遺体に見られるように、シーザーは挫折したのです。そんな挫折した男のもっていた野心とはいかほどのものだったのか。あっとしても、それは大した野心ではなかったのではないか。邪念は、むしろシーザーを遺体にしたブルータスの側にあったのではないか。この遺体の提示も、具体的根拠の厚みを構成します。
(5)市民全員に75万円ずつ贈れと
市民一同 そうだ、乱を起せ。
第一の市民 ブルータスの家に火をかけよう。
第三の市民 よし、行け! さあ、暗殺者たちを捜しだせ。
アントニー まだある、同胞諸君、まだ話したいことがあるのだ。
市民一同 おい、静かに! アントニーの言うことを聴け!おれたちのアントニーの話を!
アントニー どうしたのだ、諸君、それでは事の何たるかを弁えずして動こうとするようなものだ。シーザーのどこがそれほどにも諸君の心中だてに値するのか? 遺憾ながら、諸君はまだ知ってはいないのだ。それを話さねばならぬ。諸君は問題の遺言のことを忘れている。
市民一同 そうだった、遺言状だ! とにかく、遺言を聴いてからにしよう。
アントニー これが遺言状だ、シーザーの印がおしてある。ローマ市民全部に洩れなく分配せよとある、全市民、一人一人に、七十五ドラクマずつ贈れと。
第二の市民 おれたちのシーザー!
第三の市民 ああ、いつもおれたちのためばかり思ってくれたシーザー!
遺言状に歓喜する市民たちの鶏鳴狗盗ぶりが目につきますが、ここでも私が言いたいのは根拠としての厚みです。遺言状を手に持ち、さらには75ドラクマという具体的数字を示すことで、シーザーの野心を否定しています。もしも野心という利欲をもつ人間ならば、自身の死後とはいえ現金を配るものではないでしょう。野心をもった独裁者は、死後も自分の影響を現世に残そうとします。自身の像を立て、巨大な墳墓をつくり、壮大な葬儀をとりおこなったに違いありません。市民のために現金の分配を遺言として遺した利他的精神の表れです。
ちなみに当時、熟練工の日当が1ドラクマくらいだったらしいので、仮に1ドラクマ=一万円と換算すると、じつに75万円という金額になります。75万円を全ローマ市民に、ということなので、ここにもシーザーの利他的精神が伺えます。
(6)自分の庭をことごとく諸君に遺している
アントニー 落着いて私の話を聴いてくれ。
市民一同 おい、静かにするのだ!
アントニー まだほかにもある、シーザーは自分の庭をことごとく諸君に遺しているのだ。生前、よく身を休めたお気に入りの木蔭も、新しく造った果樹園も、ティベール河のこちら岸全部をだ。シーザーはそれらを遺してくれた、諸君、そして諸君の孫子にまで永遠に。今や共有の遊び場が出来たのだ。誰でも気の向くままにそこに杖をひき、心を休める場所が。そういう人だったのだ、シーザーは! いつまたかかる人物が現れるであろうか?
第一の市民 二度の出て来るものか、二度と。さあ、行こう、行くのだ! 亡骸を神の庭で焼き、その火を謀反人どもの家に投げ込むのだ。さあ、亡骸をかつぎあげろ。
第二の市民 火を持って来い。
第三の市民 ベンチを叩き毀すのだ。
第四の市民 そうだ、腰掛けだろうが、窓だろうが、片端からぶち毀してしまえ。
具体的根拠の最後は土地です。シーザーは死後、市民に土地を配ることを遺していました。「土地」だけではイメージしづらい聴衆のために「木蔭も、果樹園も、ティベール河のこちら岸全部」と、アントニーはさらに具体化して語りかけます。「今や共有の遊び場が出来たのだ。誰でも気の向くままにそこに杖をひき、心を休める場所が」と言い、その土地を使えば得られるであろう快適な未来をも提示します。
(7)リアリティを演出したアントニー
このように、アントニーは
1.国庫に納めた身代金
2.王冠を退けた
3.傷のついたマント
4.シーザー自身の遺体
5.75ドラクマという現金
6.木蔭、果樹園、ティベール河のこちら岸全部
と、シーザーの野心を否定する根拠を6つも示しました。マントと遺体に至っては、実物を示すことに成功しています。煮えきらないゴニョゴニョ・ブルータスとの差は明らかです。
だから「ジュリアス・シーザー」において、ブルータスが論理的に弁を語ったのに対してアントニーは感情で民衆を焚き付けた、という言説は虚構なのです。理由を示せず、誤謬にまで至ってしまったブルータスは非論理的だった。逆に、具体的根拠を次々と言い立てて論証し、リアリティを演出したアントニーが論理的だったのです。
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3.禍の神め、やっと腰を挙げたな。論理と善悪
このように、物語の見せ場において論理と非論理を対比して両者の違いをうまく見せており、シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」は論理をうまく突いた作品と言えます。
それともう一つ、この作品で論理を上手く突いている点があって、それは「論理が善悪とは関係が無い」ことです。論理とは説得の手法として用いられるものであり、それ自体に倫理的な善悪があるわけではありません。例えば、論理と同じ説得手段に、エートス(性格)があります。エートスはそれ自体に善悪がある。性格の悪い者には誰も説得されないでしょうけれど、性格の善い者には多くの人が説得されるのです。それ自体に善悪があるエートスと違って、論理には善悪がありません。善の者も悪の者も、同じように手段として論理を使えます。
「ジュリアス・シーザー」では、悪者が論理を使ることで、論理に善悪が関係ないことを示しています。いや、「悪者が論理を使う」と言っては言いすぎかもしれません。が、本作品において非論理的なブルータスが高潔な自分として描かれているのに対して、論理的なアントニーは狡猾な策士として描かれているように見えます。
そもそも暗殺されたシーザーが野心を持った悪者であるのならば、そのシンパであるアントニーも同じように悪の野心をもっていたのではないでしょうか。一見、論理的に思えたアントニーの演説も、悪魔的頭脳をもつ彼の詭弁であった可能性もあります。彼が演説の前に聴衆の前に立ったのも、はじめは「亡きシーザーを追憶する」ためであったのであって、高潔なブルータスもそのことを疑いませんでした。しかし、蓋を開けてみるとこのざまで、ブルータスはアントニーにしてやられます。
アントニーの演説は、論理以外の面でも巧妙でした。遺言状を示しておいて「読むわけにはいかぬ」と言って引っ張り、聴衆のボルテージを上げておいて結局は内容を明らかにします。ブルータスのことも「公明正大」と一見持ち上げていながら、同時に彼の非論理性を示すことで皮肉っています。「こんな奴が公明正大だってよ(笑)」という感じ。
何より演説後、聴衆を暴動にけしかけた後のセリフ。
あとは成りゆきに任せればいい。禍の神め、やっと腰を挙げたな、さあ、行け、どこへでも貴様の好きなところへ。
運命の女神、ひどく御機嫌と見える、この調子だと、おれたちになんでもくれそうだぞ。
見事な狡猾ぶり。アントニーは悪知恵の働く策略家なのです。悪者のアントニーが論理を駆使して愚鈍な聴衆をけしかけ、高潔なブルータスを倒した。論理に善悪は関係ない。やはりこの作品は、うまく論理を突いているのです。
参考
子どもがロブロックスの「ジョジョ」のゲームで遊ぶので、頻繁にスタンド名やらのキャラのセリフやらが家の中で叫ばれています。「第三の爆弾、ヴァイツァ・ダスト!」「一旦、テメーを治せばよお……」「何をやったってしくじるものなのさ。ゲス野郎はな」。
シェイクスピアの全作品をさらっと解説しています。けれど、本文で述べたように誤解釈が見られるので、この本自体に疑問が生じてしまう。けど、大まかに内容や流れを掴む分には大変重宝しました。
シェイクスピアの作品の中で一番好きです。たくさん読んで、ある程度語れるからです。下の「修辞的思考」を読んで、つられてジュリアス・シーザーをくまなく読みました。
香西秀信氏の著書。素晴らしい。
まずは言語化が素晴らしいです。修辞的思考という曖昧模糊としたものに、論理的な説明を加えます。文章を読んだとき、私たちは論理以外の部分にも説得を感じます。甚だ論理的でないにも関わらず、「なるほど」と感じるもの。その「論理でとらえきれぬもの」とは何なのか。そのような、論理以外の部分にスポットを当て、その理由を解き明かす著です。
それから、文学作品に対する考察が素晴らしいです。私たちは子どもの頃に読書感想文を書きました。「読書感想文」というとどこか子どもっぽさをイメージしますが、同じ「読後の考察」であるにもかかわらず、本書に幼稚さはなく、知的陶酔感を味わえます。「ジュリアス・シーザー」「罪と罰」「山月記」など5編の文学作品に対する香西的考察。「なるほど、そういうことだったのか」「ああ、確かにそうだ」という納得感。作り物であるフィクション作品を真剣に分析し、わざわざ思案を巡らせて納得感を得ることに、読書感想文独特の贅沢さというか、手を叩きたくなるような喜悦感を感じます。素晴らしい著書です。
しかし、アマゾンのこの値段は何のか。私は以前、ウン百円で買ったと記憶しているのですが。