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変化に弱いわたしが変化を求める理由

久しぶりの投稿となりました。

2022年も下半期に突入していますが、昨年の同じ時期からかなり環境も心境も変化してきたので、今のありのままを綴ります。

この投稿の帰着点は、最近気づいたこと。

その気づきがふっと現れ、自分が始まっていくような疑問が、今回の記事のタイトルでもあるのです。変化に弱いわたしが変化を求める理由。それは、いま一時の安心や喜びは未来永劫続かないということ、に気づいているから。

そんな当たり前のこと、何を今更…

と、これまでのわたしは自分の大切な気づきに対して、何より自らを貶(けな)していること。このことに!最近気づきました。

USJを再建された森岡毅さんの著「苦しかったときの話をしようか」を最近読み、ちょっぴりリンクしたのでシェアします。

森岡さんは語っています。

人が最も苦しいのは、自己評価が極端に低くなっているとき。自分自身で自分の存在価値を疑う状況に追い込まれたときだ

出典:苦しかったときの話をしようか|森岡毅|ダイヤモンド社

この言葉の後に自身の黒歴史と称する実話を語ってくださるのですが、思い返すだけで、涙がふーつり、と意図せず出てきそうな。実話の内容もそうなのですが、この話を書くために筆をとる森岡さんのそのときを思うと、過去の自らに対峙する凄まじいエネルギーを感じました。

臥薪嘗胆。でも、仇打ちとは違い、向かうのは敵ではなく弱く小さな自分。弱く小さな自分を認められず、信じられず、足を知るには充分の経験を生きているということだけでしているのに、それでも自分を赦せない。

表現するのが難しいけれど、自分というわけのわからない存在に対して、苦悶している人が、想像するよりも多いのではないのか。そんな気がしています。

自分にフォーカスしすぎのように聞こえるけれど、みんなきっと、そもそも人生に精一杯。それでいい。でも、視点を変えてみようと思います。くよくよしたり、頭のその辺で考えるより、心の中にいるもう一人の、本当の姿のわたしを育てること。

自分、ではなく、わたし。

この言葉を使うと自分自分…という一人よがりなイメージから、同じ息をしている人々や社会とつながるような感じがします。

不足を感じると同時にドラスティックな変化を求めがち。そんな激変で成功するなんて本物ではない。だったら本当の姿のわたしを見失わず、コツコツ向き合い、努力を積み重ねる。日々感謝して生きる。これこそ今わたしがしたい一番のことです。

#私はわたしのここが好き


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