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『人類堆肥化計画』出版後の雑感

 『人類堆肥化計画』関連のイベントが、先日の心斎橋PARCOでのトークイベントで一段落した。やれやれだ。次は二月までない。
 商業出版に著者として関わるというのは貴重で新鮮な経験ではあるものの、そうして垣間見ることになった本を取り巻くあまりに人-間的挙動の数々(自分のを含む)には、ひどく疲れさせられる。本を出せて本当によかったとは何度言っても足りないが、いわゆる物書きには絶対になりたくないと決意を新たにする日々である。
 出版業界が苦しいとはいえ、本を出版するという出来事には未だ社会的な力があり、著者には否応なくある種の名声が付与される。その証拠に、出版後、イベント出演や執筆や取材の依頼等、ありがたい申し出の数々がやってくる。そして何らかの露出をすれば、「すごいね」とか「東くんが活躍してうれしい」といったありがたい声が聞こえてくる。産経新聞に紹介記事が載った際の周囲の幾つかの反応などはほんとうに見事だった。例えば、わたしの祖母は記事を見てそれを伝えるために、また近所のある人は記事を切り抜いて置いているのだと伝えるために、わざわざ電話をしてきた。それらはどれも、わたしをより里山に向かわせてくれるという意味で二重にありがたいものである。
 本を出したからといって、わたしの里山の日常に大した変化はない。ただわたしの心情が里山方向に助長されただけだ。『人類堆肥化計画』出版にともなうあれこれのせいで里山に割くはずの時間を人-間に取られることで、本なんか書いてる場合じゃねえと里山への志向がいや増すばかりなのだ。人-間のおもろなさを再確認しつつ、ますます生前堆肥であろうと思えたことは、この本が少なくともわたしにおいて大成功していることを示している。
 これは不遜でネガティブな物言いだろうか。けれども『人類堆肥化計画』自体が社会的に腐敗した不遜な内容であり、それでもこれが出版され、ある意味不遜な内容ゆえにポジティブな感想が多いのであるし、わたしが再び不遜な発言をしたところで読者を落胆させるどころか喜ばせるだけだろう。それに、わたしに筆を執らせるより、荒廃し人手も足りず目下懸案が山積している里山に専念させるほうが、社会的にも余程ポジティブな効果があるはずである。わたしは人-間ではなく堆肥なのであって、それは『人類堆肥化計画』でも克明に述べた。そんなわたしに人-間的な顔を期待するほうがおかしいというものだ。
 第一、わたしは物書きとして生きていきたいなどとはつゆほども思っていない。じっとスマホやパソコンに向かって何かを書くより、野外で異種たち相手に身体を動かすほうが好きだし性に合っている。それは、本書執筆中やトークイベント前後の外仕事においても鮮烈に実感したところだ。もちろん本を出版したのだから——そしてこんな記事を書いているのだから——、書くことやそれを社会に向かって放つことにおもしろさを感じていないわけではない。けれども、言葉はあまりに異種たちから遠い。木を伐ることや草を刈ることと比べて、「言葉を書く」とはなんと不毛な営みだろうか。書くことはたしかに愉しく、言葉は人間に力をもたらしもする。しかも、人間はどこまでいっても物語を生きることしかできないとわたしは踏んでいるし、物語は言葉なくして成り立たない。だが、わたしにとってはその言葉の力も、やはり里山生活という物語のためだけにある。言葉であれなんであれ、この生活を圧迫するようなものはいらない。
 四の五の文句を並べたが、当然わたしは『人類堆肥化計画』が売れることを心から望んでいる。しかし、本書が売れることでわたしの名声や権威が高まることには毛ほども興味はない。ただただわたしが願うのは、本書が売れ、印税が入り、その金で良いチェーンソーを買ったり嫌々行っている賃労働を減らしたりして多種と共にある里山生活が少しでも豊かになることであり、本書を読んだ人がそれぞれの場所において少しでも人-間でなくなって異種たちと共に生きる堆肥に近づくことでしかない。

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