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『つち式』を買おう

「ぼくは断言する、ぼくがしたことは、どんな動物もなしえなかったはずだ」
——サン=テグジュペリ『人間の土地』

 去る二月某日、『つち式 二〇二〇』(以下『二〇二〇』)を刊行したのだが、それについてnoteには何も書いていなかった。というのも、刊行前からのこのふた月ほどは、宣伝にさして力を入れなくても多くの注文をいただけたからだ。そして今回これを書くのは、注文が落ち着いてきたからだ。わたしにはこの雑誌にもっと売れてもらわなければ困る理由が、大いにある。

 『つち式』は、わたしの里山生活をもとした少々過激な自費出版雑誌であり、多くの生き物に触れる愉しさを押し売る里山ガンガンいこうぜ系雑誌である。
 今号『二〇二〇』は、創刊号『つち式 二〇一七』(以下『二〇一七』)から三年を経て刊行に漕ぎついた二号目なのだが、同じ名前であっても『二〇二〇』と『二〇一七』は大きく趣向が異なっている。二号目にしてのリニューアルであり、わたしの心持ちとしてはここからが本番というかんじだ。
 この三年の間で、わたしの里山における思考は視野の拡大とともに膨張してきた。多くの技能が身に付いてきたことも関わっているだろう。とにかく自分の田畠だけでは済まなくなってきた。そもそも里山とは、人の手が入りつつ成る山野を指す。わたしはこれまで田畠にしか注力できていなかったものの、ずっと里山という広がりを念頭に置いてきたし、田畠の周りの人工林が気がかりでもあった。田畠と林の密接な関係も見えるようになってきていた。となれば、いよいよ手を出す範囲を拡げていく頃合いだ。
 もっと広く里山と付き合うにはどうすればよいか。そんなことを日々考えるようになった。そうしてある時、二百年の里山制作計画——その名も「里山二二二〇」を思いついた。なぜ二百年かといえば、わが里山の大部分が密植放置され荒れ果てた杉山プランテーションであり、それを多くの生物が蠢く場に育み直すには長い年月を要するからだ。二〇一五年に移住してからこれまで田畠をするので精一杯だった一介の人間が大きく出たものだと思う。
 わたしが『二〇二〇』からが本番だと主張する所以はここにある。『二〇一七』にも「里山」の芽は萌していたものの、二百年というのは言っていないし、頭にもなかった。それが『二〇二〇』には、「里山二二二〇」のことを中心に書いてしまったので、もう後戻りはできない。あとは、一歩、また一歩と踏み出しつづけるだけだ。つまり今後二百年、「里山二二二〇」に伴走する雑誌『つち式』を毎年刊行する所存である。

 さて、この「里山二二二〇」なる二百年計画だが、思いつきにしては我ながらよくできているのではないかと思っている。
 なぜなら、まず、木をチェーンソーで伐るのが愉しすぎるからだ。もちろん里山制作は山(林)のことだけすればよいわけではないし、わたしはひきつづき田畠も継続するのだが、この二百年の中ではこの杉山プランテーションをどうにかすることが際立って重要だと言っていい。これは労力を要し危険でもあるけれども、言い方をかえれば、手応えがありスリル満載だということだ。ここには二百年を通して伐れる/伐るべき木が腐るほどある。
 わたしはこれまで、農耕の悦びこそ人間に生まれ堕ちた者の役得だと思っていた。が、伐木も農耕に劣らぬくらい——いや、いまのわたしの気分からすればそれ以上に、人間に喜悦をもたらす行為だと言いたい。いかにも、もはやわたしは伐木中毒なのであり、木を伐っていない人生など人生と呼べるかと、ラリった頭で考えている。
 ただし木を伐ることは、いまや金がかかるわりに金にならない仕事である。木の買取価格はとてもじゃないが割りに合わないくらい低い。だからこそ手入れをされずに人工林は放置されているのであって、そこにつち式は無謀にも突っ込んでいくのだ。たしかにこれは先人の尻拭いだと言えなくもない。だが、それを言っても何も変わらない。この状況に置かれているのはわたしたち今を生きる生物なのであり、そしてわたしは人間である。このような苦々しい事態を招いたのも人間だが、この事態を大きく好転させうるのも人間だろう。
 そんなわけで、『つち式』が売れないことには、わたしの生活はおろか、わが里山も立ち行かないのである。

 それにしても「里山二二二〇」は、真面目な人も趣味の悪い人も、つまりは多くの人が愉しめるコンテンツだと思っている。里山に再び適宜手を入れることで生物多様性を恢復できるし、それは昨今流行りのSDGsにも通じるところがあるだろう(わたしは全然関心を持っていないが)。あるいはまた、齢三〇にして定職にも就かず、社会生活もそこそこに、二百年の里山に生きると大言壮語した男のザマをいつでも見物できるという側面もある。
 とはいうものの、こんな活動は続かないと思う向きもあるかもしれない。だが、これは人-間を超えた活動であり、二百年と言っている時点でわたし個人の問題でどうにかなるものではない。「里山二二二〇」はわたしが言い出したには違いないが、わたしにこれを言わせたのはこの里山であり、里山に棲む多くの生物たちである。わたしはたまたまそれに乗りやすい気質だったにすぎず、ハナからわたしの裁量だけで進む事柄ではない。結局のところ、わたしは動いているようで動かされている人間なのであって、すでにわたし以外にも動く人間が現れてきているし、人間以外の生物も呼応して動きだしている。つまり、動きだしたが最後、止めようにもこれはもう止まらないのである。
 なんにせよ、「里山二二二〇」の進捗具合を雑誌『つち式』は今後二百年毎年伝える。この行く末を見てみてほしい。何を隠そう、これはわたし自身が投げ込まれた状況なわけだが、わたしはわたし自身の人生を最前列中央席で鑑賞している見物客でもある。諸君、『つち式』をじゃんじゃん買って、共にこの見世物を愉しむ気はないか。

 また、これは書店向きにいうのだが、『つち式』という二百年毎年出る商品が誕生したのだ。本誌を扱わない手があるだろうか。『つち式』は今後もっと売れるだろうし、期待に応える準備はできている。
 最後に、出版社にも伝えておく。『つち式』は毎号約70〜80頁くらいになるだろう。ということは、五年で本一冊分として十分な頁数が蓄積する。これを出さない手があるだろうか。わたしは昨年『人類堆肥化計画』という単著を出したので、もう基本的に『つち式』以外には書かない。つまり今後、著者としてわたしが出す商業出版本は『つち式』の集成本以外にはない。こちらから出させてくれとお願いすることはない。あなた方から来てほしい。

 二百年の里山はすでに始まっている。


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