見出し画像

子煩悩な山上憶良

今回は山上憶良について。

山上憶良と聞くと、小学生のときに習ったのを覚えている方も多いのでは無いだろうか。奈良時代の万葉歌人の一人であり、特に『貧窮問答歌』の作者として有名である。

実はこの憶良という人、42歳で遣唐使として派遣されるまでの経歴がほとんどわかっていない。というのも、名門氏族の力が強い当時、彼は名も無い氏族の出。山上氏というのがどういう氏族なのかすらハッキリせず、異邦人説もある。

そんな出世コースとは縁遠い一族に属する憶良が遣唐使に抜擢されたのは、42歳までこつこつ努力と勉学を重ね、その能力をかわれたためだとされる。憶良は中国の文化や仏教をよく学び吸収し、帰ってからは国司を歴任。
また、聖武天皇が皇太子時代に、教育係を務めたこともあったとのこと。

ここで、憶良の人柄がわかる歌を一つご紹介。


 憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ そを負う母も 我を待つらむそ

※「そを負う母も」、は「それその母も」という説もあります


これは、憶良が宴を退席する際に即興で作った歌です。一部中学の教科書に載っていることもあるので、読んだことがある人もいるかも。

退席の理由として、サラッと子供が泣くから。なんて言っちゃうのが優しい。ついでにサラッと奥さんについても言及しているという。

実は、当時は子供を慈しんだ歌を作るということがありませんでした。
万葉歌人の中で、子供への愛の歌を作ったのは、憶良くらいのものです。

憶良の有名な歌に、『子等を思ふ歌』というのがある。

「瓜はめば子供思ほゆ 栗食めば ましてしのはゆ 何処いずこより 来たりしものぞ 眼交まなかいに  もとなかかりて 安眠やすいさぬ

銀も金も玉もなにせむに 勝れる宝子にしかめやも」

ざっくり意訳すると、

瓜を食べたら子供を思い、栗を食べれば子のことがいっそうしのばれる。子供とはどこから来たのか、視界の端にちらついて、ゆっくり眠ることもできない。
銀も金も宝石も、子供に勝る宝はない

憶良は本当に子どものことを大事にしていたんだなあとわかりますね。

しかし、こんなにかわいがっていた憶良の息子、古日は幼くして死んでしまう。憶良はそれを悲しんで、また歌を作っている。少し長いので引用は省略するが、子供との短い思い出を振り返り、無事に黄泉へ行けるように祈った歌で、とても切ない。

憶良は、当時の貴族は題材にしなかった、小さなもの、弱いものに目を向けて歌を詠んだ歌人である。当時としては異質の存在であっただろうが、その価値観や優しさで救われた人もいただろうし、きっと後世にもよい影響を与えたのだと思う。

いいなと思ったら応援しよう!

皐月あやめ
読んでいただいてありがとうございます! スキ!やコメントなどいただけると励みになります。サポート頂けた分は小説や古典まとめを執筆するための資料を購入する費用に当てさせて頂きたいと思います。