ある街での出来事⑧【小説】
大晦日。
もう夜の19時を過ぎていた。
私は自宅で紅白歌合戦を観ながら、腕時計の時刻と電話を気にしながら、そわそわと落ち着かなかった。
黒いバッグの中には、車の中でみんなに分けてあげようと思っているキャンディーの箱が入っている。
それと、彼の誕生日にプレゼントしたレコードを録音したカセットテープが入っている。
これを車内で流したら、彼はどんな顔をするだろうか。
でも、やっぱり無理だったのかもしれない。
もう紅白も中盤に入っている。
私はキャンディーの箱を開け、一粒口に入れた。
結局、行けないことになったのかな……。
たまらなく残念に思えて、涙が溢れてきた。
私はすぐにでも出かけられるように、今日の為に考えておいたお気に入りのワンピースを着ていた。
黒地に細かな白のドットプリントで、腰にはキユッとリボンが結んである。
涙が一粒、二粒と落ちて、テレビの画面が滲んで見えた。
バカね、泣くなんて……。
その時だった。
階下から母親の呼ぶ声がした。
「夏子ー!
ドーナツ屋さんから電話よー!」
私はすぐ涙を拭って、階段をかけ降りて受話器を手に取った。
電話の声は仁科さんだった。
「ごめんね、遅くなって!
今から出かけるって。
行ける?」
「うん。
ずっと待ってたけど、連絡ないから行かないのかと思った。」
「今ね、河野さん最後のバイトに入ってるよ。
一度家に帰ってから、行くって。
それで、上村さんが車で迎えに来るって。
どこに来たらいい?」
「じゃあ、近くに大きなデパートがあるから、その前に。」
「うん、わかった。
じゃあ12時にね!」
「うん、ありがとう。」
私は一転した状況に動揺した。
でも現実なのだ。
今から、彼と一緒に新しい年の日の出を見に行く……!!
私は自分の部屋に戻り、鏡を覗き込んでさっき落とした涙で少し崩れたメイクを直した。
父親の運転で、デパートの前のスペースに降ろしてもらった。
少し向こうに、夏のドライブで見覚えのある上村さんの青い車が停まっていた。
車の後部座席に乗せてもらい、仁科さんが心配そうに話しかけてきた。
「大丈夫?
怒られなかった?」
「うん、平気。
お正月だもん。
あっ、もう0時過ぎたから新しい年だ。」
「でも、女の人、私と佐藤さんだけよ。」
「えっ、ほんとに!?」
「男の人は5人だけど。
まぁ、頑張ろう。」
彼女は少し笑いながら、そう言った。
ドキドキしながら、車は集合場所の男性の家に向かった。
ドーナツショップに比較的近い、街中のある一軒家に到着した。
「もう少ししたら、他の連中来るよ。
ちょっとここで待ってて。」
その家で一人暮らしをしている中谷さんが言った。
見渡すと、机の上に毛筆セットが置いてあった。
新年になったので、書き初めをするのだろうか。
「あっ、来た来た!」
「明けましておめでとー。」
「おめでとう。」
振り向くと、3人の男性達がやって来た。
「やー、最後の労働終えて来ましたよー。」
自宅で入浴してきたのか、彼の髪は濡れていた。
「長い間お疲れ様でした。
河野さん、髪濡れてるよ。
乾かして来なかったの?」
仁科さんがすぐさま声をかけた。
「時間なかったから、このままとんで来た。」
「ドライヤーあるから、これで乾かして、ほら!」
仁科さんはドライヤーを持ってきて、手伝った。
なぜかこの二人のやりとりは、前から不思議と気にならない。
どこか、仲の良い友人同士というふうにしか見えないのだ。
「明けましておめでとうございます。
お疲れ様でした。」
私は照れながら、彼に新年の挨拶をした。
「ああ、もう年が明けたものね。
おめでとうございます。」
仁科さんに髪を乾かしてもらいながら、こちらを見て言った。
傍らではさっきの筆に墨汁を付けて、書き初めを始めた人もいた。
「さて、そろそろ出発しようか。」
しばらくして、全員が立ち上がった。
行き先は、北九州の日の出がよく見える港になった。
乗用車3台で分乗することになった。
仁科さんは、素早く一台の車に乗った。
「ちょっと待って!
私も仁科さんと一緒に乗る。」
私がそう言うと中谷さんに、
「ダメダメ、女の子は二人なんだから。
一台ずつ別れて乗ってもらわんと。」
と言われたので、やむなく他の車に乗ることにした。
「佐藤さん、ほら河野さんと一緒に乗りなさいよ。」
と、仁科さんが言った。
彼はそれが聞こえたのか、聞こえなかったのか、さっさと前方にある吉田さんの車の後部座席に乗り込んだ。
自分の車は乗って来なかったらしい。
私は、彼の座席の前の助手席に座った。
都市高速道路を使って向かうことになった。
寝静まった中心街を通過して、オレンジ色のライトに縁取られた高速道路を私達は走った。
私は後ろにいる彼を意識しながら、少し寂しい湾岸沿いの夜景を眺めた。
しばらくして、途中のトイレ休憩所で車を降りた。
彼は自動販売機で購入した、飲み物が入った紙コップを手にしていた。
みんな並んで、北川さんが車の前で写真を撮ってくれた。
すぐにまた車内に戻ったけれど、彼は今度は別の車に乗り込んだ。
私は少しガッカリした。
3台の車は連なって目的地に向かって、いくつもの黒い山のシルエットを越えて行った。
何時間か走り続けて、町中の暗闇の中に煌々と明かりが灯る喫茶店を見つけて立ち寄ることになった。
時計を見ると午前3時を過ぎていた。
「わー、よくこんな時間に開いてる店があったね。」
「ほんと、ほんと。」
「しかも、ちょっとオシャレじゃない?」
二階建ての赤茶色のレンガ風な建物だった。
側面の金属の階段を登り、二階の入り口から入った。
入店すると、それぞれ飲み物を注文した。
空腹の人はパスタを注文する人もいた。
私はホットコーヒーを選んだ。
彼と話をしたかったけれど、席が離れていたので無理だった。
目的地は、どうやら変更するという。
思っていたより道が渋滞していて、天気も良くないので、雲が多くて初日の出は拝めない見通しが出てきた。
大分県の宇佐神宮へ向かうという話になった。
再び乗車したけれど、彼はまた別の車へ乗った。
私は持って来たカセットテープを、バッグから取り出して、
「吉田さん、テープ持って来たんですけど、聴いていいですか?」
「ああ、いいよ。貸してみて。」
と言って、セットしてくれた。
私は上機嫌になり、あのシングル曲『セプテンバー物語』が流れてくると、一緒に口ずさんでいた。
彼が一緒に車内にいたら、おそらく口ずさむことはできなかっただろう。
2時間ほど経って、宇佐神宮に到着した。
私は初めて訪れる所だった。
駐車場が離れているらしく、いくらか歩かないといけない。
車を降りると、凍りつくような寒さだった。
一歩一歩、歩く度に冷気が顔を叩く。
今にも雪が降ってきてもおかしくない寒さだった。
それでも全員、神社を目指して向かった。
ようやく着くと、入り口には露店が立ち並んで、食べ物のいい匂いが溢れていた。
たくさんの人が参拝に来ていた。
境内は広大で、国宝の本殿や多くの社殿が点在していた。
本殿まではけっこう遠く、石段をいくつも登って進んで行った。
有名な神社らしい。
お賽銭を投げ入れ、私は願い事を念じた。
そしてここに訪れた記念に、本殿の建物が描かれた、鈴が中に入った木箱を買ったり、おみくじを引いた。
中吉だった。
「凶が出なくて良かったー。
でも私、大吉は今まで一度しか出たことがないのよね。」
それを聞いた彼は、
「でも凶は大吉に通じるっていうよ。
俺、去年は凶が出たけど、別に悪い事なかった。」
と言った。
私はその言葉を聞いて嬉しく思った。
よかった、少なくとも私と出会った去年は、彼にとって良くなかった年ではなかったわけだ。
引き返して、先ほどの露店が並ぶ通りに出て、空を見上げるとだいぶん明るくなっていた。
焼きイカやたこ焼きを食べて、振る舞われていた御神酒を頂いた。
駐車場に戻る道のりが、再び寒さで遠く遠く感じた。
私は一刻でも早く車の中に入りたくて、気がつくと7人の中で一番先頭を歩いていた。
かなり薄着をして出て来ていた。
薄い生地のワンピースの上は、そう厚くもないマスタード色のアウターだけだった。
極寒の冷たい風が、真正面からビュービュー吹いてくる。
マフラーでも持って来ておけばよかった、と後悔した。
いつの間にかすぐ後ろを歩いていた彼が、
「そんなに軽装で大丈夫?」
と、声をかけてくれた。
私は無言で、そのまま早足で歩き続けた。
やっとの思いで駐車場に着いた。
「今度、こっちに乗るから。」
と、彼が後ろの座席に乗ってきた。
私は露店で買ってきた焼き饅頭を食べ始めるところだった。
それに気づいた彼は、
「うえーっ、さっきあんなに立ち食いしたくせに、まだ食べてんの?
うえーっ。」
としつこく言った。
そう言われても、私はやっとまた同じ車に乗れて嬉しかった。
しばらくして彼は、私が家から持って来たカセットテープのケースに気づいて、それを手に取った。
「何、これ。
全部自分で歌詞書いてきたの?」
「あっ!
汚い字だから見ないで下さい!」
と、すぐに取り上げた。
小さな紙に全曲の歌詞を書き写していたものだった。
運転席の吉田さんが、
「夜中、佐藤さん、そのテープかけて歌ってたよ。」
と言った。
「ほんとー!?」
彼は笑っていた。
空はすっかり夜が明けて、真冬らしいグレーの雲が立ち込めていた。
この曇り空では、どの場所からでも初日の出は見ることができなかっただろう。
しばらくして、青の洞門という場所で車を降りた。
「"青の洞門"って何ですか?」
と聞くと、後ろから
「あのね、"青の洞門"っていうのはね、昔一人の禅僧がここに立ち寄った際に、30年の歳月をかけて彫り進んだって。
それができるまでは危険な所で、そこの川に落ちる人がたくさんいたって話。」
と、彼は説明してくれた。
川というのは、先ほどからずっと横を流れている山国川という川だ。
車を停めた駐車場のすぐ側に、うどん屋があったので近くに行って様子を見てみたが、正月休みで営業していなかった。
「そうだよね、お正月だもん無理ないかー。」
「それもそうだ。」
みんなで車に引き返す前に、また北川さんが写真を撮ってくれた。
彼はいつも撮るばかりで、本人が写真に映らないので心配になる。
次の目的地は、太宰府天満宮になった。
彼はまた別の車に乗った。
しばらくして太宰府に到着した。
みんな車を降りてきたが、彼が来ない。
様子を見に行くと、ぐっすり眠り込んでいた。
声をかけて起こしても起きないので、仕方なく彼一人を置いて行くことになった。
私はガッカリした。
本殿まで歩いて参拝した後、みんなでお茶屋にでも入ろうか、ということになった。
「俺、甘酒が美味しい店、知ってるよ!」
と、中谷さんが言ったので行ってみることにした。
数多くのお茶屋が境内に点在していたけれど、そのお店は少し離れた所にあった。
確かに甘酒がとても美味しかった。
身体が一気に温まった。
車に戻る途中、一人車内に取り残して来た彼に、私はお土産にフレンチドッグを買って帰ることにした。
車の中を覗くと、彼はまだ寝ていた。
よっぽど昨夜の最後の仕事の疲れが残っていたのかもしれない。
「河野さん、起きて。
フレンチドッグを買って来てあげたんですよ。」
むくっと起きあがった。
「ああ、ありがと。」
彼は目を擦って受け取ってくれた。
数時間で市内に戻って来た。
最後にファーストフード店に入った。
各自、コーヒーやハンバーガーを注文した。
しばらく談笑して解散になった。
時刻は15時を回っていた。
私は、
「バスで帰ります。」
そう言うと、自分の車を持って来ていないのに彼が、
「いや、家まで送ってもらい。」
と、言ってくれた。
彼も後ろに乗って、連いて来てくれることになった。
初めて彼が私の家まで来ることを考えると、嬉しく感じた。
でも、あっという間に自宅に着いた。
「ここ? ああ、"佐藤"って表札があるね。」
「どうもありがとうございました。
とっても楽しかったです。」
私は二人にお礼を言って、すぐ家に入った。
母親が、
「お帰り、楽しかった?
お雑煮があるけど。」
「ただいま。
うん、楽しかったよ、いろんな所に行って来た。
全然寝てないから、ちょっと寝る。」
自分の部屋に入って小さな炬燵に入ると、涙がぽたぽたこぼれ落ちてきた。
自分でもわからないほど涙が止まらなかった。
ただ、せつなさが込み上げてきた。
彼と一緒に夜通し車に乗って、元旦を迎えたことが、たまらなく嬉しかった。
昨日の夜連絡をもらうまでは、この初詣を絶望しかけていた。
ずっと同じ車に乗れたわけではなかったけれど、彼はとても優しかった……。
嬉しいはずなのに、もうバイトを辞めてしまった彼だ。
新年早々、こんなに楽しい思い出ができたけれど、来年のお正月はどういうふうに過ごしているのだろうか。
そう考えると、ますます涙が止まらなくなっていった。
しばらく経って、やはり一緒に行けた安堵と疲労感に包まれて深い眠りに落ちていった。