ある街での出来事②【小説】
久しぶりに、遅い時間にバイトが入っていた。
そして今日最後まで一緒にセールスをする女性は、山口さん。
この人も私よりひとつ年上で、明るくて華やかで社交的な人だ。
接客の合間にいろんな話をした。
つまらない私の話でも、山口さんは明るく笑って受けとめてくれる。
19時になる少し前に、ポーターの男性が来た。
「おはようございます。」
これはバイトで決められている、朝・昼・夜を問わない挨拶だ。
しかしそう挨拶して、店内の奥へスタスタ歩いて行ったのは彼だった。
おかしいな。
今日のシフトには"村瀬"なんて書いてなかったのに……。
急に変わったのかしら?
まぁ、どうであれ嬉しいわ。
私は急な展開に喜びつつも緊張した。
彼が来ると、どうも声やら動作やらやたらと不自然になってしまう。
隠しきれないほど動揺してしまうのだ。
ダメダメ、ふつうに振る舞わないと。
おかしいと思われてしまう。
その中でも一番緊張で顔がこわばりそうになるのは、お店の入り口の窓を彼が拭く時だ。
彼がこちら側を向いている時は、本当にどうしようもなくなる。
こんなに強い気持ちになってしまっても、この先別れがいつやってくるのかわからないのに。
その時私は、この気持ちをどこへ持って行けばいいのだろうか。
そう、最近の私は、以前のようにはもう弾んだ気持ちはちっぽけな分量だった。
今、同じ場所にいることが夢かと思われるくらい、現実と捉えられなくなっている。
間もなくして、彼がカウンターのこちらの方へやって来た。
山口さんが明るく大きな声で言った。
「おはようございます。
河野さん。」
えっ…。
私はやっと彼の名前を、勘違いしていたことに気がついた。
そうか、彼の名前は"河野"だったんだ。
それで今日のシフトの謎が解明した。
それとこの前、仁科さんが
「河野さんは、可愛いと思う。」
と言っていたのを思い出した。
仁科さんも、この人のことを言ってたんだ……。
しばらく唖然としてしまった。
お客様がとぎれる合間合間に、河野さんと山口さんは楽しそうに何か話をしていた。
私はもちろんその中に入っていけず、入り口近くのカウンターの方に一人立っていた。
もうすぐ21時で、仕事をあがる時間だ。
結局、今日彼に会えたのは嬉しかったけれど、相変わらず何も話せなかったな、まぁ仕方ないか、と休憩室へ向かう準備をした。
すると、店長がこちらへ早足で歩いて来て、
「山口さん、悪いが22時まで延長してもらえんかね。
ポーターが一人ちょっと遅れると連絡があってね。」
「あ、はーい、わかりました。」
ということで、私一人あがって休憩室へ向かった。
更衣室で着替えを終えて、私は休憩室で来月の8月のスケジュール表を書いて帰ろうとしていた。
う~ん、夏休みだからねー、頑張ろうかなぁ……。
でも、コンビニのもあるし。
そう、私は先月からここよりはもう少し自宅に近いコンビニエンスストアで、かけもちバイトを始めていた。
こちらのバイトの人数が多いのもあるみたいで、思っていたよりシフトに入れない様子なので仕方がなかった。
スケジュールを考え悩んでいたところへ、店長の机の上の電話が鳴った。
恐る恐る受話器を取った。
「はい、ありがとうございます。
ドーナツショップ、◯◯ショップでございます。」
教えられたとおりのフレーズを、どうにか噛まないで口にできた。
「お疲れ様です。
アルバイトの溝口という者ですけど、河野君いますか?」
胸がドキンと鳴った。
「え、河野さんですか。
はい、いらっしゃいます、少々お待ち下さい。」
私は休憩室のドアを開けて、小走りで店頭に出ている彼を呼びに向かった。
通路を通る途中、キッチンから店長が、
「電話? 河野君?」
「はい、そうです。」
私は少し慌てながら、木戸を押して店内に入った。
「あのー、河野さん。
溝口さんという方からお電話ですけど……。」
私はドキドキしながら伝えた。
そして言い伝えると、振り返りすぐ休憩室へ戻った。
彼は、私の後ろから歩いて来た。
「なんで鉛筆持ってるの?」
「あ、これ。
スケジュール表書いてたから。」
彼の問いかけに、ぶっきらぼうに答えた。
聞いていると、休憩室での電話のやりとりは瞬く間に終わった。
彼は一言、
「今、山口さん一人でセールスしてるから、また後でかける。」
そんなそっけない言葉で、彼は電話を切った。
私はびっくりした。
この人、ほんとに山口さんのこと好きなんだろうか……。
私は以前から少し気にかけていた。
どうもこのお店の中では、彼は山口さんとかなり仲がいい。
見ている限り、ほとんど彼のほうから積極的に話しかけている。
彼は受話器を置いて、すぐにまたお店のほうへ戻って行った。
ううん、河野さんは思いやりがある人だから……。
私はそう心に言い聞かせた。
次の日は、私の19歳の誕生日だった。
夕方からコンビニのほうのバイトが入っていた。
学校は先日から夏休みに入っていた。
少し遅い午前中に起き出して、一人、私はここのところ毎日12時40分に始まるお気に入りの昼の連続ドラマを観ていた。
やっと夏休みになって嬉しいけど。
あー、私も今日で19歳になったんだ。
最後の十代か。
わりと早かったなぁ。
膝を抱えながら、そんなことをぼんやり考えながら、テレビの画面を見つめていた。
突然、居間の電話が鳴った。
「はい、佐藤です。」
今、せっかく大好きなドラマを観ているところなのに、とぼやきながら受話器を取ったのだけれど、次の瞬間息が止まった。
「あの、河野という者ですけど、夏子さんいらっしゃいますか?」
頭の中が真っ白になった。
私の家にどうして河野さんが……!?
少し間ができてしまった。
慌てて、
「わ、私ですけど……。」
「あ、河野ですけど、わかります?」
わからないはずないじゃない。
「わかります!」
私は思わず、はっきりと答えた。
「あー、ほんと!?
あのー、明日用事ありますか?」
「え、明日ですか。
えっと、あ、5時からもうひとつのバイトがありますけど……。」
「あ、コンビニ?」
「えっ、知ってるんですか!?」
「そりゃあ、もう知ってますよ。
情報は何でも入りますから。」
「えーっ、ほんとに……!?」
まぁかけもちのバイトの事は、何人かの人に話していたから漏れたのだろう。
「じゃあ、5時には帰るようにしますから、明日ドーナツの人達と阿蘇にドライブに行くんですけど、行きませんか?」
「えーっ、阿蘇!?
阿蘇って、あの熊本県の?」
「そうです、熊本県の。」
「えー!」
私は思いがけない人からの突然の電話と、思いがけない遠出の誘いに頭の中は歓喜の渦を巻き起こして、混乱していた。
「じゃあ明日、シティパレスの駐車場に9時に来て下さい。
わかるでしょ、シティパレス。」
「は、はい。」
「じゃあ、明日。」
「あ、どうもありがとうございました……!」
彼は電話を切った。
私も静かに受話器を置いて、再びテレビの前に腰を降ろした。
さっきのドラマは、もうエンディングの曲が流れていた。
信じられないくらい出来すぎた話だった。
あの河野さんから電話……。
それもドライブの誘いなんて。
それも、突然に明日!
きっと今、お店の休憩室から、私の自宅の電話番号を調べてかけてきたのだろう。
しかも偶然とはいえ、今日は私の誕生日なのだ。
なんという神様からのプレゼントなのだろう。
河野ですけど、わかりますか?って、そんなのわかるに決まっているでしょう。
毎日思っていた人の声だもの……。
私はしばらく、ぼーっとテレビの画面を見つめていた。
しかしこれは現実なのだと認識してくると、やたら顔がにやけてしまう。
そして急にぼけっとしていられないことに気づいた。
明日着ていく服のことも考えないといけないし、ドライブだからバイト先の人達と車に乗るわけだ。
あまり話したことがない人もいるかもしれないことなど、不安と期待でいっぱいになった。
夕方、コンビニのアルバイトに出かけた。
少しでも心が落ち着くように、コンビニのバイトの友人に話したけれど、冷やかされてしまった。
その夜はやはり、いろんな思いが巡ってなかなか寝つけなかった。