ある街での出来事③【小説】
日が昇った。
暦の上で今日は、「大暑」とあった。
まさに早朝から、太陽の日射しがギラギラ射さるほど暑い。
昨夜寝るギリギリ前まで、まだあまり持っていない服のアイテムの中から、それでも最強のコーディネートを考えた。
肩の上で結ぶデザインの、黒のノースリーブのトップスと、ベージュ地に黒のボタニカル柄で、所々紺色が散らばっているスカートに、白のサンダルと白のポシェットを合わせた。
出かける前に、精一杯念入りに鏡の前で全身をチェックをして家を出た。
しかし、向かうバスの中では、嬉しいはずなのに不安ばかりしかなかった。
河野さんとは昨日電話で話したけれど、お店ではまだ挨拶ぐらいしかしたことがなかったので、まだ初対面同然だ。
あまりの緊張感の為、集合場所へ近づくにつれて、不覚にもバスを降りたくないとまで思ってしまった。
9時前6分。
ちょっと深呼吸しながら、バスを降りた。
シティパレス前にある、このバス停の側に広がる大きなスペース辺りには、誰一人も見あたらない。
しばらくバス停のベンチに座って待っていたが、9時になっても誰も来ないので心配になっていった。
ひょっとして、向こうの反対側のバス停の道路脇に車を止めているのかなと思い、いちおう立ち上がって横断歩道を歩き始めた。
「どこに行ってるの?」
横断歩道の途中で、向かいから歩いて来た男性に呼び止められた。
それは河野さんだった。
驚いたのと同時にほっとした。
「こっちだよ。」
私は引き返して、河野さんの後ろをついて行った。
彼は黒のインナーに、ダークグリーンのチェック柄のシャツを重ねて、デニムパンツにスニーカーというスタイルだった。
シティパレスの敷地前に、乗用車が3台停まっていた。
その中の1台に、何度か一緒にセールスをしたことがある一歳上の寺尾さんが助手席に座っていた。
隣の運転席には、まだあまり話したことがない男性の上村さんがいた。
そして、もう1台の車の助手席には山口さんが座っていて、ドーナツを食べていた。
運転席には見知らぬ男性がいた。
「君が佐藤さん?
昨日、電話取った人だよね?」
彼が溝口さんだった。
彼らは今から向かう行き先について、しばらく話し合っていた。
昨日の電話で、河野さんが阿蘇へ行くと言っていたが、山口県の秋芳洞もいいという話も出ていた。
どちらにしても遠出になる様子だ。
私は揃った車を眺めた。
車はワゴン車ではなく、乗用車が3台。
人は6人……。
ということは、それぞれ二人ずつ車に乗る、というわけ……?
みんなでワイワイ騒ぎながらのドライブを想像していた私は予想外だった。
「暑ーい。
なんで俺達だけ外にいるんだろーね。」
河野さんは暑そうに、少し大きな声でぼやきながら、自分の車らしき方向へ歩き出した。
自然と、私はその車の助手席に乗せてもらった。
そして結局、行き先は阿蘇に決まった。
出発。
私は唖然としていた。
どうやら、成り行きでこういう形になってしまったようなのだけれど……。
ただしばらく、炎天下の外に立っていたので、非常に全身が暑いということだけは確かだった。
しかし車内は都会の喧騒を窓が遮断した静けさと、クーラーの冷気が流れていた。
恐る恐る、運転席の河野さんの横顔を見てみると、額に汗がにじんでいるのが目に入った。
私は咄嗟に、持って来た白のポシェットの中からハンカチを取り出して、今一緒に乗ったばかりの彼の額にハンカチをあてていた。
彼は少しびっくりした面持ちで、
「あっ、いいよ、どうも。」
と言った。
私はなんと軽はずみなことをしたのか、とすぐさま恥ずかしくなった。
彼もさぞ驚いただろう。
「……この車、河野さんのですか?」
「いや、親父の車。」
彼は大学1年の冬からドーナツショップに来ていると言った。
今春で大学3年生になったらしく、成人式の話をしてくれた。
今日集まったメンバーの紹介をしてくれたり、バイト先のポーターやナイトと呼ばれる仕事の内容などを丁寧に教えてくれた。
男性の三人はそれぞれ学校は違うけれど、同じ学年ということだった。
「私、家族以外でドライブに行くの初めてなんです。」
「ほんとー!?」
彼はやや大げさに答えた。
「だから、こういう光景って信じられない。」
「こういう光景って……?」
彼の質問に私は答えられず、赤くなってうつ向いた。
実は、初めて見た時から、あなたのことを好きだったっていうことわかるはずないわよね。
ひそかに、心の中で呟いた。
しばらくしてから高速にのった。
彼は家族の話とか、高校時代の話もしてくれた。
けっこう話が上手でユーモアがあって、話してくれる一言一言が心を一喜一憂させる。
私は、好きなマンガやアイドルの話などをした。
彼もその女性アイドルが好きということで嬉しかった。
そして時折、"キンコン、キンコン"と時速100キロを知らせる音が心地良かった。
途中、サービスエリアで休憩して、お店に入り全員で飲み物を飲んだ。
しかし、私は車を降りるのが不安だった。
いつメンバーチェンジをするのかわからないということだった。
再び彼の車に乗る時、安心した。
できれば車を降りずに、ずっとこのまま乗っていたほうがいいと思った。
やがて熊本県に入って、高速を降りて国道へ出た。
「あっ、夏の逃げ水!」
突然大きな声で彼が言った。
「夏の逃げ水?」
「知らない?
光の角度のせいで、水溜まりが蜃気楼みたいに見えるんだよ。」
「へー、どこどこ?」
私はフロントガラスを睨むように見据えた。
しかし、視力があまりない私には見えなかった。
彼も視力が悪いらしく、いつもハードコンタクトレンズを使用しているらしい。
時折、バックミラーを覗いて瞬きをした。
その仕草がとても可愛く見えた。
しばらく走っていると、市街地を抜けて道幅が狭くなり、窓から臨む景色も木々が多くなってきた。
梅雨が空けたばかりの、夏の始まりの季節だ。
緑が深く、その隙間からは強い日射しを垣間見せた。
外は相当の暑さだろう。
しかし山に向かって行くにつれて、空が陰りを見せてきた。
「静かですねぇ。
もうだいぶん山奥まで来てるんでしょ。」
「そうだね。
もうすぐ阿蘇に着くよ。」
阿蘇に来たのは久しぶりになる。
子供の頃から何度か家族で来て馬に乗ったり、弟が習っていた柔道教室のイベントに母も一緒に参加して、草千里で宝物探しなんかをしたっけ。
そんなことを考えながら、見渡すと周りはもう広大な緑の草原が広がり、信号のないほとんど真っ直ぐな道が彼方へ延びていた。
一行は、阿蘇五岳の寝釈迦のように見える、見晴らしのいい場所のスペースに車を寄せて降りた。
風が少し強かった。
今朝出発した時の、気だるいほどの日射しが信じられないくらいに、阿蘇外輪山で最も高い標高の、この場所はとても涼しかった。
「あれ、誰もカメラ持って来てないの!?」
「げぇー、ほんとだー。」
「河野、どうしてくれるー。」
「まぁまぁ。
カメラが無くとも、この風景は僕達の心にいつまでも残りますよ。」
そんな冗談を言っては、みんなを笑わせてくれた。
山の稜線が続く景色をゆっくり見渡して、次の目的地に向かおうということになった。
溝口さんが、
「佐藤さんがそろそろ、メンバーチェンジしたいってよ、河野さん。」
と、いきなり冗談を言った。
河野さんの車を挟んで、おもむろに河野さんと私は顔を見合わせた。
心なし、彼は真顔で私を見た。
私は焦って苦笑いを見せた。
もちろん全くそう思っていないので、誤解しないでと願った。
無言で彼は、助手席のドアを開けてくれた。
どうにかまた彼の車に戻ることができて、私は胸を撫で下ろした。
3台の車は、草千里へ向かうことになった。
時々急なカーブがあり、シートベルトを着けていないと、フロントガラスに頭をぶつけそうになるほどだった。
有料道路で、通行券を受け取った彼は、
「記念に取っとき。」
と言ってそれを私に渡してくれた。
私は宝物にしようと思って、ポシェットにしまった。
車は連なって走っていたが、草千里にもうすぐ到着するところで、上村さん達の青い車がついて来ていないのに気づいた。
「どこに行ったんだろうね。」
仕方がないので、草千里に面する中心部の大きな駐車場のわかりやすい場所に、2台の車を停めた。
その間、噴火口の見学を4人ですることになった。
噴火口辺りから、硫黄の独特の匂いが立ち込めてきたので、鼻をふさぎながら歩いて向かった。
見学を終えて駐車場に戻ると、上村さん達の車が停まっていた。
それで、二人が噴火口を見に行っている間に私達4人は、草千里の草原を散歩することにした。
私は溝口さんとかけっこをしたり、小さなカエルを捕まえて大人げなくはしゃいだりした。
すると、さっきから雲行きが怪しかった空から、ポツポツと水滴が落ちてきた。
このぐらいならまだ大丈夫だろうと、その場を離れないでいると、突然大粒の雨に変わった。
慌てて4人は車を停めている駐車場を目指して、全力で走った。
急いでそれぞれ車内に乗り込んだ。
私も彼も、ずいぶん雨で濡れてしまっていた。
私はハンカチを取り出して、彼に渡した。
今朝、彼の額を咄嗟に拭いてしまったハンカチだ。
「二枚持って来てるから、使って下さい。」
「ああ、ありがとう。」
駐車場の側には、買い物や休憩ができる商業施設があった。
中に入って時間を過ごすことにした。
店内には、いろいろなお土産なども並んでいた。
時計を見ると、3時近くだった。
「この分じゃ、5時までに帰れそうにないですね。
コンビニのバイト、電話で謝ります。」
「そうだね。ごめんね。」
公衆電話を探して電話をして、申し訳なかったけれど、理由を作ってなんとかコンビニの店長に了承して頂いた。
店内を見渡して、家族に何か買って帰ろうと思い、迷いながら草饅頭を二種類手に取った。
「河野さん、どっちがいいと思います?」
「こっち。」
彼は確信したような声で、素早く選んでくれた。
いくらか時間が経ったが、上村さん達の車はなかなか戻って来ない様子だった。
私達はそれぞれ車に乗って、その少し先のスペースに停車して待機することにした。
雨は降り続いていた。
窓を閉めきった車の中も、外もとても静かだった。
いつの間にか霧が出てきて、ほどなく外は真っ白な景色になった。
ほんの少し先でも、何も見えないほどだった。
私は相変わらず緊張していた。
お店でバイトをしている時と全く変わらないレベルだ。
静けさがいっそう緊張感を増すのだろう。
その様子を察したのか、彼は、
「リラックスしていいよ。」
と声をかけてくれた。
「リラックスしてますよぉ。」
私はつい、図星なので強い口調で返してしまった。
彼は運転席の座席のシートを倒した。
「ちょっと休むから、上村さん達の車が来たら教えて。」
と言って、目を閉じた。
本当に静かなひとときだ。
外はまだ白い霧が全体を包んでいる。
別世界のようだった。
それから10分、20分が経った。
上村さん達の車は、一向に戻って来ない。
彼はシートを元の位置に戻して、肩をならしていた。ずっと運転していたから、疲れが出てきたのだろう。
「肩、こっちゃったんですか?」
「うん。」
「肩、揉んであげましようか?」
私はそう言った後に、また大胆なことを口走ってしまった、と後悔した。
「うん。」
しかし、彼はそう答えた。
私はそっと彼の肩に両手を運んだ。
恥ずかしくて顔から火が出そうというのは、こういう場面のことを言うのだろう。
恐る恐る肩をつかまえて、揉んでみた。
「もう少し、力入れていいよ。」
「痛くないですか?
私、力、強いんですよ。」
しかしそれはほんの一瞬で、彼の向こうの窓に上村さんの顔が突然現れた。
私は、慌てて両手を離した。
「いやー、すまん、すまん。
遅くなってしまった。」
やっと3台揃って出発となった。
雨の降り続く中、車は発進した。
そして、帰路に向かっていた。