ある街での出来事④【小説】
帰りは高速を使わず、公道をゆっくり走って帰ることになった。
熊本県を出てしばらく経った頃、もう雨はすっかり上がって雲は広がっているが、太陽が西のまだ少し高い所に位置していた。
「もう夕方なのに、まだ太陽が耀いていますよ。
やっぱり夏ですね。」
「ほんとだ、まだちょっと眩しいね。」
時間は18時近くになる。
私は、なぜ今日のドライブに誘ってくれたのか疑問を持っていた。
ほとんど話をしたことがなかったし、バイトのメンバーはたくさんいるのに……。
そういえば、一昨日の夜山口さんと二人のセールスの時に、私が家族以外でまだドライブに行ったことがないと話した事を思い出した。
このドライブをいつから計画していたのかはわからないけれど、山口さんがあの日残業で河野さんと二人でセールスをしていた時に、山口さんが私のことを話してくれたのかもしれない。
そしてもしかすると、一昨日の夜にお店の休憩室で、私が溝口さんからの電話を受けたことも関係していたのかもしれない。
そんなことが頭を巡っていたら、
「佐藤…夏子っていうんだね。」
彼は改めて、私の名前を確認した。
「はい、仁科先輩と同じ名前です。」
「先輩? あ、そうか、彼女よりひとつ下なんだ。」
今日一日で、ほぼ初対面だったけど、彼のいろいろなことを知ることができた。
結局朝から今まで、彼の隣にいられたわけだった。
噴火口の見学をしていた時、溝口さんが再び、
「そろそろ、メンバーチェンジしようか?」
と言った時は、もうダメかと思った。
しかし、どうにかそのまま変わらなかった。
「あれー、ガソリンが無くなってきた、こりゃヤバい。
溝口さん達、舞い上がっているなぁ。
どこにも寄らんで、ごはん食べないのかな。」
そう、お昼ご飯を食べるタイミングがなかったまま、夕方に至っている。
そして、私達の車は3台中一番後ろで、私達がもしガソリンスタンドで停車したら、気づかずにそのまま先へ行ってしまう懸念がある、というわけなのだ。
「これじゃあ、人間もガス欠になっちゃいますね。」
「ほんと、車も人間もガス欠だ。」
突然、彼は左折して車を停めた。
ガソリンスタンドだ。
「あー、とうとう他の2台とはぐれちゃいましたね。」
ガソリンを満タンにして、再び走り始めた。
「もうみんなに、会えないのかしら。」
しばらく走ると、見慣れた2台の車が先方の道路の横脇に停車していた。
「あっ、あそこに待ってくれてる。
よかったー、もう会えないかと思った。」
それは、私の本心の言葉ではなかった。
二人でこのまま、とり残されてもかまわなかった。
その後、目に入った飲食店へ夕食で寄ることになった。
お座敷の部屋がいくつかあり、その中の一室へ6人は案内された。
大きな長方形で茶色の木目調のテーブルを、男女別れてテーブルを挟んで座った。
私は女性達の真ん中で、彼は私の右向かいに座った。
メニューは男性は和風定食を、女性はシーフードドリアを注文した。
そういえば、河野さんと食事するのも初めてになる。
やがて、注文した物が運ばれて来た。
見ていると、彼はほんの10分足らずで綺麗に全部食べ終えていた。
あまりの早さに、私は目を見張った。
行きがけの会話の中で、高校時代の話をしてくれたことを思い出した。
彼は親元を離れて、寮生活をしていた頃の食事の争奪戦が激しかったので、早食いが習慣となりそれが今も直らないらしい。
彼はみんなが食べ終えるまでの時間をもて余し、傍らにあった新聞を広げながら話をしていた。
やはり彼は、向かいに座っていた山口さんとよく話す。
「山口さんが、あのテレビ番組面白いっていうから、見たよ。」
「面白かったでしょ。
あれに出てくる主人公がカッコいいんだもーん。」
「それもわかったけど。」
あきらかに、私と彼が車にいる時のテンションとは違う。
私は、自分と一日中ずっと一緒だったのが申し訳なかったような気がしてきた。
途中でメンバーチェンジして、彼女と乗り合わせたほうがよほど楽しかったのではないか、と思った。
事実、一昨日のバイトでも二人楽しそうに会話をしていた。
夕食を終えて、店を出るとすっかり陽が落ちて、既に薄暗くなっていた。
彼の車に乗った。
21時に、今朝集合したシティパレスの前に集まるということになった。
「山口さんって、明るいですね。」
「うん、あの人といたら飽きないよ。
だいたい、ここの連中、みんなうるさいからね。」
シーンと、静かになった。
私は彼女に嫉妬しているのだ。
しかし、今はそれより、もっと切実な感情が胸を締めつけていた。
楽しかった一日も、もうすぐ幕を閉じる。
集合場所のシティパレスまで、ここから1時間もすれば着いてしまうだろう。
私は、もう二度と、こうして彼の車に乗ることはないのではないかと思った。
だいたい、今日が信じられないことばかりで埋め尽くされていたのだと思う。
新人の私が、ここにいるというのが奇跡だった。
私は胸の中で、今日のことをどんなことがあっても大切にしようと誓った。
そして、彼といつか会えなくなる日が来ても忘れないでいようと思った。
例えば、10年後……。
ううん、5年後、3年後。
1年後だって……。
その時二人が会えている可能性って、なかなか難しいことだと思う。
いいようのない淋しさは、今日が楽しかった分だけもっと重くなるだろう。
私はさっきの飲食店を出る時、レジの側で買っておいた長い箱入りの一口チョコレートをポシェットから取り出した。
自分だけ食べるのは悪いかなと思い、彼に一応聞いてみた。
「チョコレート食べますか?」
「うん。そんなの買ってたの?」
私は一粒、銀紙を剥いで彼の左手に渡した。
二粒目を渡そうとしたところで、彼は言った。
「口に入れて。」
私は心底驚いた。
まぁ彼は、運転中だからそう言ったのだろう。
それでも、恐る恐る彼の口の中へチョコレートを入れてみた。
うっすらと指が彼の唇に触れた。
彼は何も言わなかった。
それなら、と私も気に留めていないふりをして3粒目を彼の口へ運んだ。
今度は指が唇に触れただけではなかった。
口の中に入ってしまった。
指を食べないで下さい。
と、私は冗談でも言ってしまおうかと思った。
しかし、彼はそれでも黙ったままだった。
私もポーカーフェイスを続けることにした。
「はい、ラストです。」
二人で食べたチョコレートは無くなってしまった。
驚きで、話す言葉が浮かばなかった。
運転中の人に、食べ物を渡す時というのは、こんなふうにきわどいものなのだろうか?
今まで家族以外でのドライブの経験がなかったので、検証のしようがない。
彼は、カーラジオの電源を入れた。
ナイター中継が聴こえてきた。
「どこと、どこが、試合してるんですか?」
「えっ、これオールスター戦。」
「オールスター戦って、何ですか?」
「オールスター戦を知らない!?」
私はプロ野球オンチだった。
それも重症らしい。
しかし高校野球は大好きだったので、夏休みは毎年できる限り全試合をテレビで観戦していた。
高校野球の本も購入していたぐらいだ。
二度と来ない青春をかけた高校生球児達の、真剣な姿に涙ぐむ機会もけっこうあった。
私があまりのプロ野球の疎さのせいなのか、彼はハンドルにうずくまった。
信号は赤だった。
「そんなに笑わないで下さいよ。」
私はおもわず焦って、彼の背中を叩いた。
彼はうつぶせていた顔を私の方へ向けた。
沈黙の中、見つめ合っていた。
赤信号と同様に、時が止まったかのように思えた。
やがて信号は、青に変わった。
「プロ野球で、知ってる人の名前言ってごらん。」
本当に野球オンチの私には、面倒で嫌な質問だった。
「えーと……。
◯でしょ。
△でしょ。
それから□でしょ……。」
「それだけしか知らん!?」
「はぁ……。」
「そうだね。
野球とか知ってても、何の得にもならんもんね。
そっか、そっか。」
彼はわざと意地悪く、そう言った。
月が大きく、真ん丸い姿を見せていた。
満月に近い大きさだ。
月の傍らに、山影が横たわっているのが見える。
もう市内だ。
「あの山、油山ですか?」
「ぶーっ、あのねー、あれが油山であるはずないでしょ。」
「えー、そうですか? いいえ、あれは油山ですよ。」
私は自信を持って反撃した。
しかし、後で調べてわかったのだけれど、油山ではなく丘陵地帯だった。
「違うってば。
ほんと、最初はそう思わなかったけど、非常識だね。」
前もって私は、自分は非常識なところがありますから、と突っ込まれる前に宣言していた。
彼はまた、意地悪くそう言った。
そんなたわいのない話をしながら、とうとう集合場所のシティパレスに到着した。
待ち合わせの21時を少し過ぎていた。
他の2台の車は既に到着していた。
私はもう二度と乗ることはたぶんないだろう、と神妙な気持ちで助手席のドアを開けて降りた。
「ありがとうございました、今日はとても楽しかったです。」
私は彼の顔を見て、お礼を言った。
しかし彼は、頭をコクンと頷いただけで何も言ってくれなかった。
6人は最後に、シティパレス内のファーストフード店に入って、飲み物を飲んだ。
彼とは何も話ができなかった。
そして、しばらく談笑して解散になった。
私は道路を挟んだ反対側のバス停から、自宅までのバスがあるので、早速と向かった。
上村さんの車に乗ろうとしていた寺尾さんが、
「佐藤さん、河野さんに送ってもらえば?
ほら、あっちで待ってるんじゃないの?」
と、呼び止めてくれた。
「いいえ、大丈夫です、バスがありますから。
さようなら。」
と、やせ我慢して笑って答えた。
バス停に向かう横断歩道を歩き始めた。
今朝、待ち合わせの場所がわからなくて、間違えて途中まで歩いた歩道だ。
バス停に着いて、いくつか設置してあるイスのひとつに座った。
あーあ、ついに終わってしまったんだなぁ……。
今日一日のことを振り返り始めながら、帰宅のバスが来るのを待った。
バスが来る方向に目を向けると、こちらへ彼の歩いて来る姿が目に入った。
私は驚いたけれど、イスに座ったまま動かなかった。
ふと見ると、彼の手に何か持っている物があった。
それは、車の後部座席のシートに置いておいたお土産の草饅頭だと気づいた。
「忘れてました、どうもすいません。」
彼はそれを私に渡した後、隣のイスにストンと座った。
「送りますよ。」
しかし彼は、私のほうを見ずにそう言った。
前方の、遠くを見つめているようだった。
私はやはり迷惑なのだと思い、
「いいですよ。」
と断った。
「だって、悪いですもの。
すぐここからバスに乗れるから、いいです。」
「でも、せっかくここまで来たから……!」
彼は少し大きな声でそう言って、立ち上がり、車を停めている方向へ歩き出そうとした。
「いいですってば、すぐバスが来ますから。」
立ち上がった彼を引き止めた。
彼はイスに座り直した。
少し気まずい空気が流れた。
「油山に、夜景見に行きませんか?」
「えっ!? どうして反対方向へ行くんですか?」
私は彼の言葉に、嬉しさと同時に耳を疑った。
「反対方向だっけ……?
帰り道って、どこを通るんだっけ?」
「……。えっと、自動車学校の前を通って、◯◯高校の前を通って、それから……。
いいですってば、あと2、3分でバス来ますから。」
「じゃあ、バスが来るまで待っとく。」
変な人だと思った。
もしかして、彼が見つめる前方の向こうに溝口さん達が待っているのではないかと、私は気がねしていたのだ。
そんなことを考えていると、バスがとうとう来てしまった。
「バス、来たね。」
「今日は、どうもありがとうございました。」
私は未練を隠して、明るくバスに乗車した。
わりと空いていたので後方の左の窓側に座った。
そして、ベンチにまだ座っている彼のほうを見た。
その時、やっと気づいたのだった。
手を振ろうとした私に対して、彼はこちらを見向きもせずに、ただすごく怒ったような顔でじっとどこかを見つめていたのだった。
彼はひょっとして、本当に送ってくれようとしていたのかもしれない……。
そう思った瞬間、発車してすぐのバスを降りたかった。
でも、もう遅い。
たとえ次のバス停で降りて引き返しても、もう彼はあの場所にいるという自信はない。
私は今日起きた奇跡と、今起きたすれ違いで、心が乱れたまま家路に向かった。
翌日はバイトに入っていた。
今日も強い日射しがさんさんと降り注いでいた。
正午から夕方まで仕事に入っていた。
お店の入り口の大きなガラス窓からは、商店街を行き交う人々が降り注ぐ日射しをみな眩しそうに、目を伏せがちにして歩いているのが見えた。
夏休みに入り、子供連れのお客様が多いのに気づいた。
「外は暑そうね。」
「ほんと、今年は暑いほうじゃない?
クーラーがないと、やっていけないわよ。」
一緒にセールスをしている同僚達の会話を聞きながら、私の心はまだ昨日に取り残されたままだった。
信じられないほどに楽しかった一日だったけれど、あの別れ方は気がかりだった。
やっぱりちょっと怒ってるんじゃないかな……。
いろいろ考えても、今度彼に会ってみないとわからないことだわ。
そういえば、たしか彼は今月末から二週間ほど大阪と京都まで、バイクで一人旅をすると言っていたのを思い出した。
じゃあ、当分会えない日が続くわけよね……。
私はふっと小さく溜め息をもらした。
すると、入り口のガラス窓の向こうにオートバイが2台停まったのが見えた。
河野さんだ。
もう一人は友人らしい。
彼はヘルメットをはずして入り口の自動ドアに立ち、店内に入って来た。
そして、カウンター内のレジの前にいた私の姿を見つけると、こちらへ近づいて来た。
「あ、昨日はどうもありがとうございました。」
あまりに急な彼の登場に、私は呆然とした。
「いや、これ。洗濯してないけど、借りっぱなしだったから。」
青い布きれだった。
昨日、草千里で急に雨が振ってきたせいで、びしょ濡れになってしまった彼に渡したハンカチだった。
それだけ言うと、ニコッと笑って、ハンカチを私の手に渡した後すぐまたお店を出て行った。
今からツーリングに出かけるのだろうか。
このハンカチを返す為に、わざわざお店に来てくれたというの……?
私は嬉しさがこみ上げてきた。
そして、どうやら昨日の別れ際のことは、どうにか怒っていないということがわかって安心できた。
見ていた友人は、
「良かったねー!」
と笑って私の肩をつついた。
※余談ですが、帰りのドライブのイメージとして、『夏に恋する女たち』という大貫妙子さんの曲が合っているような気がします。
坂本龍一さん編曲で、とてもキラキラしたステキな曲です。
中谷美紀さんや、原田知世さんもカバーされています。
よかったら聴いてみて下さい♪