
短編小説『アクアパッツァ』
あ、ここのお水おいしくないな。
目の前に出された水滴がたっぷりと付いたグラスに口をつける。
グラスをそっと置いて目の前の景色に目を映す。秋風を感じる夕方は日が暮れるのが早くて、18時には車のヘッドライトがたくさん灯っている。
ふと入ったイタリアンの店のカウンターの席で私はアクアパッツァを注文した。
『お水が美味しいお店は当たりだ』と、5年も前に聞いたセリフを思い出す。
飲食店に入って水を飲むたびにあの人の言葉が過ってくる。
当時は「なるほどなぁ」と妙にしっくりきて頷いていたけど、今になると「うーん」と首を捻りそうになる。
水の美味しさと料理のおいしさは関係ないような気もするし、関係ある気もする。
あの人と別れてから5年。当初は目の前の仕事に縋っていないと心が壊れてしまいそうで目まぐるしい毎日を送っていた。
仕事があれば気分が紛れるし、それでも寝る前や休日は押し潰されそうでただただ苦しかった。
枕を何度濡らしてもあの人は来ない。
そもそも涙を流しながら「会いたい」と伝えても、あの人は一度もこの家に来たことがなかったのに。
『アクアパッツァでございます』
ことん、と音を立てて皿が置かれる。
トマトやムール貝がたくさん乗った中に、どしんと構える鯛が顔を出していた。
頼んだ割に食べ方が分からず、とりあえず目の前の熟されたトマトを口に放る。
じゅわっと果汁と共に出汁が口の中に広がる。
次にムール貝を手に取って、身を掬う。
初めて食べるムール貝はアサリとは違って、海独特の塩っぽい味がしなかったけれど、それ以外は他の貝と何が違うのかさっぱり分からない。
箸で鯛の身をほぐして口に入れる。
もっと味が浸透していると思ったけど、しっかりと白身魚の味だった。
…やっぱり、水の美味しさと料理の美味しさは関係しているのかも?と一人思う。
一回りも年上の男性と付き合うと、物事の見方が新鮮で話を聞くたびに「そうですね」と納得していた。あの時の私はただの馬鹿だった。
あの人が急に会いたいと連絡が来るかもしれないから、仕事も早く終わらせて帰路に着いたし、休日も空き時間があると奥さんに嘘をついて私に会いに来てくれた。
あの人が会いたい時なんて、セックスがしたいときだけなのに。
それに気が付きたくなくて、私は馬鹿な女をずっと演じていた。
「自分の身体は大切に」なんて10代に伝える言葉であって、32歳の私には不毛だ。全て自業自得。
「無料風俗かよ」
ぼそっと呟いたつもりなのに、二つ隣に座っている男性の視線を感じた。
『すみません』と心の中で呟きながら軽く頭を下げた。
いつになってもあの男には腹が立つ。
人前では偉そうに言うくせに、嫁にバレた時はすんなりと守備に回る。甲斐性もないずるい男。
せめて浮気の一つや二つ隠せる男であって欲しかった。もしかしたら私との関係は浮気の三つ目だったのだろうかと嫌な考えが巡る。
『嫁はそこまで俺のこと興味ないから』と言っていたけど、自分が家庭に興味がないだけだろうと妻や私を見下していただけだった。
5年も前のことを考えてイラつく私もかなり執念深い。
ぽいぽいとトマトやムール貝、白身魚を口に放り、ろくに味を堪能せずにアクアパッツァの皿を空にした。
あまりおいしくないお水を飲み切って店を出ようと席を立つ。
『すみません』と背後から声が聞こえる。
さっきこちらを見てきた男だった。
男も席を立ち私に近づく。
『涙が出ているので心配になって、つい声をかけてしまいました』
あぁ、視界がぼやけてきたなと思ったけど私は涙を流していたのか。
「よくあの席から分かりましたね。視力が良いのですね」と、涙を拭いながら言葉を返す。
『いえいえ、あまりにも綺麗な女性が怒りを露わにした後、頬に光が流れていったので、あまりにも見惚れていたらそれは涙だと気がついて』
側から見たら情緒不安定な女じゃないか。
『もう帰るのですか?よければ一緒にもう一件どうですか?ここも僕がお支払いするので』
今日はこのまま帰るのも嫌になり、かといって初対面の下心のある男の誘いに乗るのもどうかと思い迷ったけど、奢ってくれるのならと「…はい」と頷き男に身をまかす。
男が支払いを済ますと、肩が触れる距離にきてスムーズに私の腰に手を回してきた。
展開が早すぎて体がびくつく。
『あ、すみません。そのヒールだと転んでしまいそうだから支えなきゃと思いましてね』
「私こそ、勝手にびっくりしてすみません」
一旦は距離を空けて店を出た。
すぅーっと秋風が私の髪を乱す。
『さぁ、いきましょう』と男が左手を差し出す。
その手にはキラリと光るシルバーリングが薬指で光っていた。
あぁ、またか、と、心の中でため息を吐きながらその手を握る。
…もう、いいや。
私はまた目の前の男に乱されるのだ。
心も体も何もかも。
濡れて濡れまくって溺れていってしまう。
そんなこと分かりきっているのに、この男に抱かれたら自分はどう吠えるのか興味が湧いてきた。
本当に私は馬鹿な女だ。
ー完ー