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最近見た映画

ちょっとさかのぼって、11日に見た映画2本について

まずは1本目の「悪は存在しない」
(翌週に2回目を見たときに気が付いたことを付け加えています。)

ミニシアターで座席数が少ないということもあり座席はほぼ満席。数日前にインターネットで座席予約をしておいて正解。上映10分前の開場前にチケット売り場に列ができていたので、当日にシアターに出向いてもチケットを買えなかったかも。

ちょっと変わった経過で製作された映画
(公式ホームページからの引用)→きっかけは、石橋から濱口への映像制作のオファーだった。『ドライブ・マイ・カー』(21)で意気投合したふたりは試行錯誤のやりとりをかさね、濱口は「従来の制作手法でまずはひとつの映画を完成させ、そこから依頼されたライブパフォーマンス用映像を生み出す」ことを決断。そうして石橋のライブ用サイレント映像『GIFT』と共に誕生したのが、長編映画『悪は存在しない』である。

ライブ映像のための作品ということは、劇中の台詞は消されることになる。だから濱口監督がインタビューで新人だったりマイナーな俳優を使わざるを得なかったとおっしゃっていたけど、映画の中では、個々の俳優がなくてはならない存在感を示されていた。また、それを引き出した監督や撮影者、スタッフの仕事が素晴らしい。

オープニングは森の木々を見上げる映像から始まる。そこに不穏なギターの演奏が重ねられているが、不穏な音に引き込まれたところですぐにストリングスが奏でるテーマに繋がる。
ギターが使われるのは、この映画の意味を決めるエンディングの直前の2回だけなので、映像を意識したアレンジだと思う。また薫がうどんを茹でるために使う水をくむシーンでテーマ音楽を使うのも同じ意味なのかも。

石橋英子さんの音楽(アレンジ)と音楽を使うべきシーンの選択がとてもよい。見ている人はテーマのメロディが使われている場面やそれを奏でる楽器まで意識していないけど、音楽にも映像と同じレベルで意味を持たせているとしたら素晴らしい感性だと思う。音楽用にオーダーした映像を映画化したということが影響していると思う。(お礼をする、みたいな)


賛否両論のエンディング。

何もない広びろとした原っぱのなかに、主人公の巧と花、劇中のテーマの一つであるクラウピング場開発の担当者である高橋、手負いの鹿の親子しか存在しない。余計なものを一切排除した演出である。

そしてこのシーンで劇中の伏線を回収することが、この映画を「引き算の映画」にしている。素晴らしい演出につきる。
また同時に、エンディングのシーンに解釈の余地を与えている。

・・・・・

(1)巧の娘である花が手負いの鹿の親子に近づこうとしているのを止めようとする高橋に、巧はプロレスの技を掛けて止める。→たぶん高橋は失神している様子で、またこれが最後のシーンの伏線になっていると思う。

(2)高橋がおとなしくなったところで立ち上がった巧が見たものは、倒れ込んだ花。花からうっすらと血を流す花の鼻に指を当てて呼吸を確かめ、花を抱えて歩き出す。

(3)意識を取り戻した高橋がふらつきながら立ち歩くも、すぐに倒れ込んでしまう。

(4)花が見上げていたと思われる木々の下を、花を抱えた巧のすすり泣くような音がかすかに聞こえてくる。花が見上げていたのは昼間だが、花が抱き上げられて森の木々の下を歩くのは暗闇のなかである。

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他にも意味があるシーンがあると思うけど、意味がありそうと感じたシーンはざっとこんなところ。


最初に見たときは、(2)で鼻からうっすらと血を流して倒れ込んだ花の様子と、(4)の花を抱き上げて歩く巧のすすり泣くような息づかいから、花は亡くなっていると思った。

2回目に見た後は、花は生きている、亡くなっているのどちらの解釈もできるように演出されていると感じた。

亡くなっていると感じるのは初回のときと同じで、さらに意識を取り戻した高橋が倒れ込むということが死を意識させるから。

生きているのではないかと感じたのは、花が倒れ込んでいることが死を意味すると断定できないと思ったのと、いったん立ち上がってから倒れ込んだとはいえ高橋が生きていたということは、花が生きているのではないかということ。

オープニングは、昼間に、花が森の木々を「見上げている」(そこに花しか存在しないし、花は生きている)。
エンディングは、暗闇の中で、意識がない花が巧に抱えられながら森の木々に「見守られている」。

オープニングもエンディングも、森の中で木々を見上げている構図は同じだけど、エンディングには花に加えて巧が存在すること、そして木漏れ日の昼間か暗闇かが違う。

「暗闇」が気になってしょうがない。巧は口数が少なく必要なことしか話さない人。そして劇中に花の母親と思われる女性が映る構図が違う2枚の写真があるのだが、その女性が登場しない理由は何か。暗闇を歩く映像は、こうしたことから巧の心に闇があることをが意図するように思えてくるのだ。

いずれにしても、たとえ悲劇であっても、後味の悪さをまったく残さ
ない映像を作り上げた監督の手法が素晴らしいと思う。


追加
クラウピング場の説明会のシーンで、発言しようとする巧が帽子を脱ぐ。
そしてエンディングで手負いの鹿に近づこうとするとき、花が帽子を脱いでから近づいている。
「帽子を脱ぐ」のは敬意を示すときだけど、これらのシーンの意図は阪南だろう。他の方の意見で、巧と花の立ち位置が違うというのがあったけど、そういうことを反映しているのかなぁ。

追加その2
台詞(脚本)は公開されない予定のはずなのに、クスクスと笑いが漏れるシーンがあるのはどうしてなんだろう? 濱口監督の洒落っ気なのかな。




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