クリップ
7月をもって、わたしのアルバイト先の教室をやめた子がいた。
つまりその子は習い事をやめたということになるけれど、その子は最後の日にみどり色のクリップをくれた。
それなりに懐いてくれていた子でわたしも少し寂しかったけど、その子もやっぱりいくらかはそう思っていてくれたみたいで、そわそわしながらみどり色とむらさき色のクリップを並べて
「先生、どっちの色が好き?」
と聞いてきた。
その時点で(あ、クリップをくれようとしているんだな)とわかってしまったわたしは、大抵の人がそうするようにまず謙遜じみたことをした。
「えー、どっちでもいいよ。〇〇ちゃんはどっちが好き?」
正直わたしにとっては本当にどっちでもよかった。
いや、本当はむらさきが好きだからどっちでもよかったというと語弊があるのだけど、でも本質的にはどっちでもよかった。
ーみどりのクリップだろうが、むらさきのクリップだろうが、大人になってしまったわたしにとってはただのクリップでー
でもその子にとってそのクリップはきっと大事なもの。
わたしもそういうことをするような子どもだったから手に取るようにその気持ちがわかったのだけど、
その子にしてみれば自分で買ったと言っていた (本当はお母さんかお父さんに買ってもらったのかもしれないけど) ただの銀色じゃないクリップはきっとタカラモノ。
そんなタカラモノを好いている人にあげるのは結構大きな決断だ。
「じゃあこっちあげるね。」
そう言ってその子はみどり色のクリップを置いて、むらさき色のクリップはしまってしまった。
キラキラしたきれいな色のクリップをわたしにくれようとするその気持ちに思いを馳せていたほんの少しの間に、その子はクリップを置いて去っていった。
むらさきがよかったな。と思う大人気ない自分と、餞別の品としてちいさなちいさなクリップをくれたその思いに、思いがけず目頭が熱くなるくらいには年を重ねた自分を感じながら、みどり色のクリップをかばんにしまった。
8月になった教室にはあたりまえだけど、もうその子は来なくて。
もらったっきりかばんに入れたままだったみどりのクリップを思い出しながら、
「あのクリップはちょっと特別なものだな」
なんて思っていたのに、
気付いたらみどり色のクリップはどこかにいってしまっていた。
せっかくあの子が最後にくれたのに。
思い出の、ちょっぴり特別なみどり色のクリップ。
だけどやっぱりわたしにとってはただのちいさな文房具だったみたい。
でも大丈夫。
もうわたしは大人だから、みどり色のクリップが手元になくても、あなたがカラフルなクリップを特別に思わなくなった時がきても、わたしは最後の7月のあの日を忘れないよ。