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具体をすっ飛ばして抽象に行けてしまうことの罠

一般的に学校の勉強は学年が上がるごとに難しくなるものであると言われている。基本的なことをすでに知っているものとして進めていく点と内容が徐々に抽象的になっていくのが主な理由である。

さて、ここでいう抽象的とは何か、それは言葉や概念の指し示す意味合いが広くてその言葉を聞いただけでは日常生活に根付いた具体的なイメージを思い浮かべにくい様子のことである。

ところで、何かを教えるとき、日常生活と結びつきの強い具体的なところから導入し、そこから一般化(抽象化)していくのが一般的な指導法である。算数で分数について教えるときに「ケーキを三等分したら3分の1きれのケーキが3個になるよね」と教えるように。

しかし、世の中には抽象的な概念を素直に受け入れられてしまう人が一定数存在する、僕もかつてはそうだった。一般的に分かりにくいと言われている微分積分、複素関数について学んだとき僕は素直にそれらの規則や概念を飲み込んでしまったのだ。

量子化学というものがある、内容な量子力学の応用であるがあまりに抽象的で難解なものであり、化学系の人の中でそれを理解している人など殆どいないと言ってもいい。しかし、僕はその量子化学に初めて触れた時面白いと思ったし独学でなんとかできてしまったのである。

ところが実際に研究をする際に問題が起きてしまったのである。お気づきかもしれないが抽象的なことにばかり触れ続けてしまったせいで具体的なイメージが追い付いてなかったのである。本来であれば具体的なイメージの積み重ねの上で抽象的なイメージが出来上がるわけであり、故に抽象的思考が出来る人は賢いとされている。しかし、僕の場合は具体的イメージがない状態での抽象的思考”もどき”でしかなかったのだ。

真の抽象的思考とは、具体と抽象の反復である。具体的なものごとを観察し、モデルを形成した上で知られている概念と照らし合わせて矛盾がないかを判断し、またモデルの正しさを示すために実験を行いその実験結果からモデルを再構築しての流れを繰り返すことが一例である。

抽象的な概念を幾ら理解していようが具体的なイメージがなければ荒唐無稽な机上の空論でしかないし、具体的なイメージがどんなに豊かであってもそのイメージから法則を導き出せなければ当然抽象的に物事を考えるのは困難となる。抽象と具体は思考の両輪でもあるのだ。

自分の思考に具体的なイメージがともなっていないという事実に気が付いた僕は、小中学の内容を復習することにした。その頃の私が勉強をサボっていたのもあり、当時学んだ内容を全然覚えていないのである。実際に学んでみると知らなかったことの連続であるし、知っていたことであっても高校、大学の範囲と照らし合わせて捉えなおせるという意味で新鮮である。

講師が小中学の内容を教える際に、理屈や概念ではなく情緒や感覚から説明しているのが興味深い。算数で太郎と花子が公園を散歩したりお買い物をしたり、国語の物語文で子供目線から人間関係や戦争についての心の動きが述べられているのも興味深い。具体的な世界に触れることで脳内世界が日に日に鮮やかになっていくのが感じ取れる。

抽象的な思考に染まりすぎては会話は通じない、言葉は人との意思疎通のためにあり、伝わらない言葉に意味はあるのだろうか。就活の面接のとき、自分の言葉が通じない感覚があったが恐らく相手も同様の違和感を覚えていたのだろう。そりゃ上手くいかないわけである。伝わらない言葉は何も言っていないのと同じである、だから僕は意思疎通の手段としての言葉を身に着けるために義務教育の復習を欠かさず行うように意識したいと思う。

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