再現性とかいう自分にはないもの
私は大学院生時代勉強ばかりしていた様に思う、それも研究に向けた目的のある勉強ではなく中学の国語、数学、高校数学、線形代数と無秩序極まりない勉強である。
勉強をしていく行く中で自分が想像以上にこれまで学んだ内容を理解していないということを実感したし、思考の解像度が鮮明になったのはあると思う。
しかし、それと同時に自分にないものは何かが見えてしまったし、素質上の限界が見えてしまったのもある。本記事ではそれについて語っていく。
私には再現性という能力が欠けていた
タイトル通り、私には再現性が欠けていた。再現性とは他の人が同様の手法を真似たとして同様な結果が出るか否かの度合いのことである。工場は正に再現性の極みとも言える、マニュアルに沿って製造すれば高品質高精度で同様の物を量産できるからだ。
ところで、私の思考には再現性が全くと言っていいほどない。今にして思えば、自分の目の前に立ちはだかる問題をその場の思いつきでどうにか処理してばかりの人生だった。高校、編入学、院試と受験を3度繰り返してきたが、どれも落ちたら絶体絶命な状況であったし、解決法も反復学習で再現性を高めた訳でもなくその場の閃きでなんとか処理するの繰り返しだ。
人生を運と閃きで乗り越えてきた私のような存在に再現性などあるのだろうか。数学の問題を解く時、解答用紙が綺麗だった思い出がない、混沌とした思考の末に何故か解答に至った、そんなのばかりだ。なんでひらめいたのか自分でも分からないため、当然点数も不安定であった。
さて、私は理系の世界で長年過ごし続けてきた。しかし、サイエンスという分野は再現性の最たるものである。理学なら検証可能性、工学なら量産できるか否かが問われることだろう。再現性というのは感覚的かつ具体性を帯びたものに論理性を付与した際に備わる性質であると考える。しかし、具体性というものは私が苦手とする分野の最たるものである。
再現性を求められるフィールドで戦っていたのにも関わらず再現性を一番苦手としていた、上手く行かないのも当然だ。文系就職することになったのも必然的といえる。
今後の方針について
再現性が自分には備わっていないことが明らかになった以上、サイエンスの世界から身を引くのが妥当だと考える。
一番苦手な能力で戦うほどしんどいものはない。製造業、技術系公務員も考えたが、どれも仕事の説明会を聞く度にやる気をなくしていくものばかりであった。手作業、ものづくり、生産プロセス、製図、トライアンドエラーどれも私にとっては苦行でしかない。
立体的な細かい物事について考えるのは私の脳には向いてないし、実際に有機化学や古典物理学といったミクロな事象を細かく観察する学問は全般的に苦手としていた。
再現性と空間認識能力には密接な関係があると私は考える。空間に対して具体的な何かを組み立て、実行する、これぞ正に再現性そのものである。
せっかくのことだし統計学と世界史を勉強した上で社会科学にチャレンジしていきたい。もしかしたら私はまだ自分の才能を活かせる場所に出会っていないだけなのかもしれない、それを探求するためにも日々、努力は続けていきたいものだ。
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