見出し画像

長島愛生園見学クルーズに参加してきました

2020年から、同志社で、【「負の遺産」と政治】【記憶と継承の政治学】と題した科目を開設して以来、ずーーーっと行きたい、行かねばと思っていた長島愛生園に、4年越しでようやく行ってきました。

長島愛生園は、1930年(昭和5年)、日本初のハンセン病療養所が開かれたところです。

授業でよく使っている『ミュージアムと負の記憶 戦争・公害・疾病・災害:人類の負の記憶をどう展示するか』にも、長島愛生園に関する論文が掲載されています。

上記科目の初年度に受講してくれた学生さんが四国出身で、社会科見学か何かで長島愛生園(大島青松園だったかも?)に行ったことがあるという話も聞いていました。

それから4年、今年こそ、今年こそと思っていました。

長島愛生園には、今でも元患者さんが生活されている現役の療養施設でありつつ、ハンセン病に対する理解を深めるため、記念館を整備したり、見学ツアーを開催されたりしています。

春から夏にかけては、かつて長島愛生園に連れてこられた患者さんたちが辿った道を体感する、解説付きのクルーズ(船による見学ツアー)が開催されています。秋冬はバスによるツアーがあります。

園が主催するこれらのツアー以外でも、個人で予約して見学することは可能ですが、どうせなら船に乗って、瀬戸内海を渡って現地に行きたいと思っていました。

今年は年度が替わって、日程が公開されてすぐに家族の予定を確認し、早々と予約をとりました。いよいよ日程が近づいてくると、天気予報は雨… せっかくのクルーズなのに、雨は嫌だなあ~~💧

果たして!

迎えたクルーズ当日は、見事な晴れ! 暑すぎるくらいの快晴! またしても「遠足」を晴れさせてみせました!


長島愛生園クルーズの船が港にやってきました

日生(ひなせ)駅のすぐ目の前にある桟橋に集合、予想より人が少ないなあと思っていたら、通常使用する船の改修?か何かで、この日は別の船を使うため、定員を少し減らしての催行だったようです。ものすっごく暑かったので、人数少なめなのは助かりました。( ´∀` ;)


行きは、やや大回り。主な島の歴史などが船内マイクで解説されます。写真は省きますが、バブル時代に林立したという、白っぽい別荘群がなんとも異質な感じだったのが印象に残っています。

本土と一番迫っているところは、25~30メートルほどしか離れていません。そのため、泳いで長島から脱出しようとした方もおられたそうですが、流れが速く、渡り切れずに亡くなった方もおられたとか… 橋がかかって、自由に行き来できるようにするのは、長島の方々の悲願であったそうです。


出発地点も、長島の近くも、牡蠣の養殖がずらりと。


桟橋では、今も愛生園に暮らしておられる元患者さんの代表の方が、暑い中、出迎えてくださいました。

解説してくださる愛生園歴史館の学芸員の方に連れられ、まずは歴史館へ。

文献やHPでは、蔦の絡まる歴史館のファサード(正面)だけを切り取った写真を見るので、もっとなんというか、島全体、レトロな雰囲気なのかと思っていましたが、現地に行ってみると全然イメージとは違いました。

桟橋からの道には、現役の看護学校校舎がありますし、歴史館の横にもコンクリートの建物があります。道路にしても何にしても現代的にきちんと整備されていて、古い雰囲気があるのは歴史館くらい。

島全体が現役の国の療養施設なのだと頭でわかっていたつもりでしたが、実際とはかけ離れたイメージを創り上げていたことをあらためて認識しました。やっぱり現地に行く意味ってありますね。

歴史館では、学芸員さんの概説をお聞きしたあと、ざっと館内見学。

もっとも印象的だったのは、元患者さんが作られたというジオラマです。

前述の『ミュージアムと負の記憶』所収の論文にも紹介されていて、見たいと思っていたジオラマ。想像以上に精密な作品です。

そして、家族一同、ショックを受けたのが「自殺場所」という標記… これは、業者さんが作ったものには絶対入らない説明ですね。

<解説を聞き、展示を見ていって、わかっていたつもりがわかっていなかったことを認識したその2>は、ハンセン病は多くは乳幼児期に感染するが、栄養や衛生状態によって発症する人がいたり、しない人もたくさんいたりすること、幼児期に発症する人が多いこと、そうした人たちは親と引き離されて隔離施設に収容され、そこで育つことになること、です。

小さい頃から家族と離れ、隔離された子どもたちは、島の居住区域で共同生活を送りました。島内には小学校から、のちには高校までが開設されました。ジオラマには、どのあたりが生活の場所で、どのあたりが職員ゾーンで、どこがその区切りだったのかもわかるようになっていました。

大人になってから収容される人もあり、その患者さんの子どもは、患者ゾーンではないところで生活しました。患者さんたちとは学校も別です。

学校では、患者ではない教職員と、患者である児童生徒らとの間にも厳然とした区別がされていたそう。その象徴である消毒の設備が印象的でした。


収容されていた方々が結成した「青い鳥楽団」のコーナーもたいへん興味深かったです。ハンセン病に罹患した方のなかには、失明する人も少なくないのですが、文字通り血のにじむ練習を積んで、音楽活動に励まれました。



自由見学の時間は短かったのですが、どうしても見ておきたかった園長室。

なぜなら、上記の論文のなかで、初期の園長の評価は入所者のなかでも割れているため、展示にはその双方の意見を反映させているという話があったので、どのような展示になっているか確かめておきたかったのです。

確かに、パネル解説を読むと、園長のみならず、愛生園に関わりのあった著名人の功罪(罪というのは少々表現として良くないですが…)について書かれていました。この園長室ゾーンは見学者があまり来ていなかったのですが、けっこう大事な部分であると思いました。

さて、内部をざっと見学したあと、島内の重要な場所をいくつか徒歩で回りました。園の方で車も用意され、徒歩が辛い方はぜひどうぞと何度も呼びかけがありました。そうした配慮も、さすが現役療養所。でも、みなさん、てくてくと歩かれていました。

長島愛生園歴史館


連れてこられた被収容者さんらが上陸した、かつての桟橋。今は崩れています。職員さんたちの桟橋は別にあります。

収容桟橋


島に着いたら、消毒をし、一週間ほど、こちらの収容所「回春寮」で過ごしました。

「回春寮」


回春寮内部


回春寮内部


事件を起こしたり、脱走しようとしたりした人を拘留した、監房の跡。

使われなくなって、埋められたそうですが、近々、発掘して元の形がわかるように整備するというお話をされていました。そのときには、ぜひもう一度見に行きたいです。


少し小高い山手にある納骨堂。故郷に帰ることができない方、引き取り手のない方などのお骨が安置されています。


視力を失った方が多いので、辻々には、ラジオのスピーカーが設置されています。その音を頼りに、園内を歩かれるそうです。これも、行ってこそわかることでした。

帰りも、桟橋近くまで、入居者代表の方がお見送りに来てくださっていました。ご自身の体験を少しお話くださいました。暑い日に本当にありがとうございました。

この日の参加者は、わざわざ申し込んで見学に来る人たちなので、既にハンセン病やその歴史、(元)患者が負ったスティグマについては、ある程度、知識も理解もある方たちのようにお見受けしました。

大学生のグループ、高校生と引率の先生方のグループなども来られていました。いいですね、そんな活動ができる仲間がいるって。


ということで、駆け足でしたが(ツアーもこのブログ記事も)、ようやく降り立てた長島愛生園。今回も、やっぱり現地に行って初めてわかる感覚がある、と確認できました。

同じ瀬戸内のハンセン病療養所がある大島青松園にも行きたいと思っています。こちらは、3年に一度の瀬戸内国際芸術祭の舞台になることが多いので、それと併せて行ければと思いながら、2022年は逃してしまったので、次回2025年こそ行くぞ!

関連記事:長島愛生園見学と併せて楽しんだBIZEN中南米美術館


いいなと思ったら応援しよう!