子供は真実を語るのかもしれない。
先日、子供3人を公園で遊ばせていた。
私自身は彼方此方フラフラしながら、子供たちを公園に迎えに行くと、
末の次男が泣いている。
これは間違えなく意地悪美少女なお姉ちゃんが泣かしたに決まっている!と親としてあるまじき決めつけ予想をした。
うちの娘は美少女なのだ、多少性格が意地悪になるのはもう仕方ない。
顔が良いやつは性格悪いもんだ(決めつけ)。
次男に話を聞いてみると、私の予想は外れていた。
『あんのねー、知らない男と女の二人にー、「男がピンク着ている」って言われたー、うわーん!!』
なんとこのジェンダー問題騒がれる今の世で、ピンクを着ているとからかわれ、そして泣き出す次男。これは中々に面白い。
父『いいかい次男くん。君の来ているピンクはラルフローレンだぞ。
お兄ちゃんもお姉ちゃんも着てきた由緒正しきおさがりだ。
ラルフローレンというのはオシャレの象徴なんだ。
そして、ピンクが似合う男っつーのはモテるんだぞ!!』
次男『お父さん、何言ってるかわからないーーーー、訳わからない、
うわーーーーーーん!!』
君にはまだラルフローレンのポロシャツの価値はわからんか。
そんな話をしていると、美少女の代名詞、長女から耳を疑う言葉が。
長女『弟いじめるとか、許せない。そいつら私が仕返しする!!』
なんだと?
これは一日平均3.5回弟に意地悪して泣かしている長女の言葉か??
父は耳を疑ったが、実際は感動してしまった。
父『やはり君もお姉ちゃんなんだねー、これからも弟を守ってあげてね。』
長女『うん!!弟をいじめるのは私だけの特権なの!! 他の人は許さな い!!』
うちの娘は顔が良いだけか、、、。
そんなやり取りの後、長男がボソッと言った。
長男『お父さん、ピンクはオシャレ、とか、その言い方は良くないよ。
お父さんがピンクが良いと思っても、子供的にはピンク嫌なんだか らさ。それは意見の押し付けだよ。』
なんだ?
知ってはいたが、うちの長男は天才だ。
ジーニアスだ。
ナチュラルボーンジーニアスだ。
最近宿題の答えを丸写ししてるのがバレて母親に激怒された息子とは思えない。
父は改めて長男が天才だということに気付いてしまったのだ。
そうか。お父さんは決めつけ魔神だな。
意地悪長女がピンク次男を泣かしていたと決めつけていたし。
これは反省しないといけないね。
天才イケメン長男に感謝である。
世の中には決めつけが溢れている。
何も知らない人があいつはこうだ、こいつはこう考えているに違いない、と勝手な決めつけで言う。
Twitter見てるとよくわかる。
皆決めつけ魔神だ。
コロナ禍で外出ている人⇒コロナを舐めている、何も考えていない奴だ、みたいなものなんか最たるものだろう。
皆コロナは怖いし、皆感染症対策もしている。
その上で、どうすれば自分の人生を少しでも謳歌出来るのか、今ある人生に彩を持たせることが出来るか、
色々工夫して生きているわけで。
何も考えていない、なんて口が裂けても言えないものだ。
優しくない世の中だ。想像力が足りない世の中、と言っても良いかもしれない。
想像力が足りない、と決めつけが多い、の2点から、
世の中のありふれたダメなフィードバックを思い出した。
FB(フィードバック)の重要性
ビジネスシーンでFBの重要性は日々問われ続けている。
私自身日系企業4年、外資系企業11年働いていたが、どちらもFB面談は存在した。
外資は特にFB文化を大事にしている。
なのにだ。
それなのにだ。
それだけ重要なものとして捉えているのに、世の中あまり良いFBというのを見ることがない。勿論当然コーチングやティーチングが上手な企業組織もあるのかもしれないが、
残念ながら私自身、為になったなー、良いFB面談だったなーと思うものは、
残念ながら15年ぐらいで1回ぐらいしかなかった。
もしかしたら私の参加意欲が斜に構えていたから、という理由もあるかもしれないが。
兎に角嫌だったポイントが2つある。
それが『想像力の欠如』と『決めつけ』だった。
決めつけと想像力の欠如
人が何かを決め、行動する際に、
『そんなん意味無いし』、『やめたほうがいいと思うよ』
などという言葉は散見されるのが世の常だ。
これは多少仕方ない部分もあったりする。
アドバイスを送っている本人は本気で考えているだろうし、
それがアドバイス送られた側を幸せにする発言だと思っているから。
ただ唯一この中に、
『それに至るまでにどれだけ考えて行動しているか?』
という相手側へのリスペクトが足りていない。
結果だけを見て良かった悪かったなんて言う評価は誰でも出来る。
馬鹿でも出来る。
そんなもんはAIに任せればよい。
プロセス評価に変化すべきだ、なんてことは言うつもりない。
とは言え、プロセスもきちんと評価しないとダメだ。
改善出来ないから。
結局人生は改善の繰り返しによって成り立っていると思っている僕からするとプロセスと改善を重視したFBをするほうが良いと思っている。
多かれ少なかれ皆頑張っている。
その上でうまくいっている奴もいれば、未だに芽が出せていない人もいるだろう。
その瞬間瞬間を切り取って、良し悪しを判断するなんて本当に意味があることなのだろうか?
何かモノ申したい時に、決めつけは排除して、自分の発信の受け取り手がどう思うか、想像力を働かせていたいな、なんてことを思ったのである。
結局コミュニケーションなんていうのは愛があるかだし、
その愛の形はリスペクトだと思っている。
相互間のリスペクトだ。
あまりにも仕事が忙しく、ベンチャーで働くってなんでもやることなんだな、と改めてヒーヒー言っている。
僕は自分が仕事が好きだ、って決めつけていたけど、実は麻雀しているほうが好きなのかもしれない。
意外に自分のことが一番わからないものなのだ。
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