「一重だから可愛くないね」も「一重でも可愛いね」もクソ喰らえだという話
はじめに、一重瞼が美しいか醜いかという議論をしたいとか、二重整形をする人を批判したいという意図は全くない。美しさの尺度は人それぞれ(ただ、社会的に作られた美意識が個人の価値基準に影響されることも大いにあると思っている)で、改めて議論することではないと思うからだ。また、私自身が審美的な目的で歯列矯正をしているし、なりたい見た目になるために個人が行動することは何ら間違っていないと考えている。
しかし、インスタのリールや電車で二重整形の広告を見る時、メイクの手順の説明で「二重幅」という文言が出てくるたびに、毎回少し胸が痛む。望めば数万円で二重瞼は手に入るが、別にそれを望んでいるわけでもない。多分二重に少しなりたいし、でもなりたくないのだ。今まで「一重」と「二重」をめぐって考えてきたことや、今考えていることを残しておきたいと思った。
「一重だから可愛くないね」と、「一重でも可愛いね」
「一重(ひとえ)」という言葉を知ったのは小学2年生頃のことだ。学童の先生と同級生の女の子と私の三人で話していて、女の子が先生に「◯◯ちゃん(私)は、一重?二重?」と尋ねたのだ。学童の先生は私の顔を覗き込んで、「うーん、一重だね」と何でもないような感じで答えた。尋ねた女の子も「ふーん」という感じだった。だからその時は、「私はどうやら一重というものらしい」と、ただ思った。
「一重は二重より可愛くない」がいつからわかるようになったのか、明確に覚えていない。しかし、「一重だから可愛くないね」と面と向かって言われた時のことはよく覚えている。小学5年生のとき、2歳年下の親戚の子から、にやにやとしながら言われた。彼はからかうつもりだったのだろうが、私は唖然としてしまった。自分が誰からみても可愛いと言われる部類ではないことはわかっていたが、直接、はっきりと「可愛くない」と言われたのは初めてだったからだ。あまりにも面食らって、怒りも泣きもしなかった。ただ、この時のことはずっと覚えている。
中学1年生のとき、初めてコスメを買った。メイベリンの色付きリップと、アイプチだった。当時読んでいたニコプチやピチレモンといったローティーン向けのファッション誌に、アイプチの広告がいつも載っていた。なるほど、一重でも二重みたいになれるのか。つまり、可愛くなれるのか。私は迷うことなく購入した。しかし、私の瞼は重たく、アイプチを試しても作られた二重の線の上に皮膚が重なって奥二重のようになってしまったり、それではと幅の広い二重を作ろうとするとすぐに糊が取れてしまった。そうして、格闘しているうちに二重になることは諦めた。二重にはたしかになりたいけれど、そんなに苦労してまで手に入れたいものではなかったのだ。
それからも、ネットで二重になるための瞼のマッサージなどを見つけては、一度試してすぐに「どうせだめだ」とすぐに飽きてしまった。
時が経って大学2年生の頃。メイクを覚えてある程度自分の顔を受け入れられるようになった。当時「一重 メイク」で検索すると一重の芸能人としてあげられていた、Red VelvetのスルギやTWICEのダヒョンのメイクを真似した。時代はコロナ禍で、友達が少なく孤独を深めていた私は、マッチングアプリで手当たり次第男と会いまくっていた。その中の一人、新宿の居酒屋で会うことになった初対面の男に、「一重でも可愛いね」と言われた。私が一重であることを気にしているという文脈だったら百歩譲ってわかるが、そのようなことは一言も発していない。その男は単純に私のことを口説くためにそういったのだろう。一重だと、「可愛い」をもらう前に注釈をつけられなければいけないのか。その時もモヤモヤしていたが、やはり面食らって何も言えなかった。
私の中ではきっと「一重だから可愛いくないね」も、「一重でも可愛いね」も同じくらい言われたらショックなことなのだ。それは私という個別具体的な存在に対して、「一重=可愛くない」という社会的な通念を、何の躊躇もなく適用させているからだろう。そのような基準でジャッジしてくれとは頼んでいない。
また、見た目への言及が傷つくか傷つかないかには、その人との関係性の深さも大いに関係してくると思う。「一重だから可愛くないね」と言ってきた親戚の子は年に数回しか会わないし、「一重でも可愛いね」と言ってきた男に至っては初対面だ。浅い関係性で、他人の身体的な特徴について言及することは避けた方が良い。もし仮に初対面の人に「一重だから可愛いね」と言われたとしても、同様にに傷つくと思う。
「いいんじゃない?私も二重にしてみようかな」
大学3年生の時、初めてできた彼氏に振られた。その時は就職活動で受けていたストレスと重なり、「自分は社会からも男からも求められない存在なのだ」と落ち込み、文字通り三日三晩泣き続けた。
別に会社も男も星の数ほどあるのに。そして就職できなくたって彼氏がいなくたって幸せに生きる方法はあるはずなのに。渦中にいる時はそんなことを考える余裕がない。当時上映していた映画『ちょっと思い出しただけ』を観てここぞとばかりにまた号泣した。「可哀想な私」でいたかった。その帰り道、ふと、二重整形してみようかなと思った。
帰宅して、母に二重にしたいというアイディアをぶつけると、同じく一重の母は、「いいんじゃない?私も二重にしてみようかな」とあっけらかんと言った。
そう言われると、逆に怖くなってきた。体にメスを入れるということ、万が一失明することでもあれば、そうでなくとも思った通りにならなかったら、ダウンタイムとかも怖いし、などとやらない理由が自分の中からいくつも出てきた。
しばらく経って母から「ところで、いつ二重にする?」と聞かれて、「別にいいかな」と答えた。母も現在まで一重のままだ。
その一件以来、落ち込んだ時や変化に飢えているとき、二重整形が頭をよぎるが、実際にしてはいない。何かのきっかけがあればやるかもしれないし、一生やらないかもしれない。わからない。
おわりに
私は今のところ、一応自分の顔を受け入れている。二重になりたいし、なりたくない。
ただ、SNSや広告で二重整形についての情報があまりに目に入ってくるのが疲れる。芸能人に二重が多くて、地味に傷つく。「二重幅」や「ダブルライン」といった言葉から、それらのメイクが自分向けではないことを悟る。「一重だから可愛くないね」と、「一重でも可愛いね」がやっぱり頭から離れない。それらが、「二重が普通」とか、「二重でなければ可愛くない」というメッセージとして自分に降りかかる。特に広告は、その人固有のものをあえて見えなくさせ、一重か二重かという基準だけで美しいかどうかをジャッジし、美しくない人への不安を煽る。そうしたメッセージが世の中から減ってくれれば、個人が発する「一重だから可愛くないね」も、「一重だけど可愛いね」も減っていくのではないだろうか。
月並みだが、美しさはもっと幅の広い構成要素からできていることを今の私は知っている。姿勢、声、髪型、表情、服装、何をどう話すか。わかりやすい、自明かのように扱われている美の基準に当てはめるのではなくて、その人の固有性にもっと目を向けられるようになりたいと思う。そして、私のことを個別具体の存在として見てれる人と仲良くなりたい。私のことを知る人からの「可愛い」はもちろん欲しいし、「かっこいい」も「賢い」も「優しい」も「頼もしい」も欲しい。その他いろいろな、オリジナルな言葉で褒められたいし、人のことを褒めたい。