「議員報酬は下げるべきか」という議論
自分の生活や社会情勢を見るにつけ、
「既存の議員の報酬が高いか」という疑問が湧くのは
今の生活が豊かではない、あるいは不公平を感じる限り
真っ当なものと言える。
だが、高いという評価に突きつけられるべき結論は、
減給ではなく、落選させることではないか。
我々は議員報酬を下げることで、政治が達成するべき期待値まで下げてはいないか。
あなたが経営者と仮定して、
働かない無能な従業員を前にどのように対処するか。
事業目標達成に向け、今いる従業員を解雇し、有能な従業員を探すか、
現状を維持するために給料を下げるか、になるだろうか。
日本の政治を経営するにあたり、
現状で後者を選択する経営者なら国が滅ぶだろう。
企業経営と違い、
選挙で合法的に解雇出来るわけだから、
減給よりも、解雇して新たな人材を集めるべき。
政治家の給料を安直に下げることは、
新たに有能な政治家が参入する機会を失なわせ、
既存の働かない政治家を温存させる、国民には不利益としかならない。
官僚や公務員は、簡単な解雇ができるわけもなく、
減給も当然考慮されるべき。
翻って政治家に対し、
国民がどう前向きに政治と取り組めるかが問われるのが議員報酬。
下げることに執心であることは、政治家の達成目標も下げている、
と理解すべき。
金のために政治家になるのか、というご批判もあるかもしれない。
だが、政治家も家族あり、選挙というリスクを背負って出馬するわけで、
それなりの報酬が伴わなければ、誰もなりたがらない。
誰もなりたがらない、必要悪の職業のままでは、政治家の質の低下も避けられない。
滅私奉公の美徳を政治家に求める愚はそろそろやめて、
当たり前の普通な生活者が、
リスク覚悟で乗り出せる環境に政治の場を変えていかねばならない。
政治がいつまでもお上のものであるから、
他人事として議員報酬を下げる、という意見に迎合してしまう。
日本の経営者として、有能な政治家を集める視点で考えてはどうだろうか。
名古屋の河村氏をはじめとする政治家の、議員報酬を下げんとする動きは、
新たに政治に参入しようという人たちへの緩やかな参入障壁となる。
既存の働かない政治家の利権確保の一手法、ともなりえる。
資本がなければ政治に参入できないということは、
資本に応じて政治が行われることを許容することと同義だ。
わたしが議員報酬の減給に異議を唱える理由は、
政治資金や、ともすれば裏金の温床が利権誘導政治にあるため、
利権を確保している議員に限って報酬が少なくても困らない、
とも言えるから。
こうした状況下では、利権に安穏としている政治家をこそ温存し、
政治の場に新しい人材を送り込む参入障壁となってしまう。
政治家に聖人君子の登場は、確かに望ましいことではある。
しかし、そうではない、そうできない自己が居ながら、
政治家に勝手に聖人君子や滅私奉公を期待することは、
民主主義では間違っている。
民主主義であり、己が政治に打って出ていないことを踏まえ、
また、新たな人材の輩出を期待するなら、
安易に議員報酬を下げることは日本の政治を逆行させる。
そこには供託金を下げたり、落選後の雇用をどのように確保するのか、
そうした補償の対象とするために政党では予備選を行う、
などの別な方法も検討できるだろう。
また、外国との比較も提言されるが、そもそも再就職しにくく不安定で、かつ経験や知名度が足りない者にとって、出馬するリスクは諸外国と比較できるものではない。
政治家がずっと同じメンバーだったり、親から子に受け継ぐものだったり、ということを当たり前に受け入れてしまうと、安直な減給を選択できてしまうようになる。政治家という職業を他人事で別世界に置くからそういう議論になる。
いくつかの機能の補完によって、生活者の一人である私が、あるいはあなたが、政治家になる選択をできる状況を作ることが政治の健全化につながる。
政治家を我々が選ぶ立場である限り、安易な議員報酬の削減はすべきではない。