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【短編】彼女の包丁

包丁を持った彼女。

私の帰りを心配していたと彼女は言った。
また別の女の所へ行っていたのかとそう言ったのだ。
左手に持った包丁がなければ、なんと言う事は無いのだけれど。
その手にある婚約指輪と包丁の組み合わせがなんだかおかしくて。
私は少し笑ってしまった。

そして、その私の顔を見て、彼女の眼が釣り上がり温度が5度ほど下がったのが分かった。

でどうなのと聞かれたので、私は正直に答えた。
私が遅くなったのは、仕事と電車のせいだったと。
連絡する事はできたのだけれど、ついつい優しい君に甘えてしまったのだと、私は心を込めて謝ることにした。

彼女はため息とも納得とも言い難い声を出し、あげていた左手を下ろした。

そういうのよくないと思うと彼女が言った。

私はそうだね。私の悪い癖だと答えた。

それは直してほしいなぁと彼女は言った。

努力はしているつもりなんだけどと私が答える

でもそれ一緒に住む前から同じこと言ってるよね。

確かにそうだ。

じゃぁさぁそれでも治らないってことなんじゃないかなぁ。

いやでもとさらに言い訳を続けようとしたけれど、確かにそうだなぁと私は妙に納得してしまった。
だから、ごめんねとだけ謝った

一度位本当に刺してあげたほうがいいのかと思うんだけどどうかなぁと聞くので、痛いのは嫌なんだけど、君だったらまぁいいかなぁと私は答えた。

その答えが気にいったのか彼女はおろしていた。
左手を持ち上げて、私の首筋に包丁を当てた。

なんだかひんやりとして、私はまな板の上で一塊の肉となったのだと想像した。
私と言う人間はこの愛しい人の手で解体されて行く。
そのことを思うと、私はなんだか胸が締め付けられて少し悲しい気持ちになった。
しかしそれもまた良いかもしれないと思い直した。

君が食べてくれるなら、それも良いかもしれないねと私は答えた

馬鹿だねと彼女が言った。

そうかもしれないなぁと私は答えた。

彼女は目を細めるとそれまで当てていた包丁の腹を縦にし、私の首筋に包丁の端を当てた。
今までひんやりとしていた金属の塊が急に鋭さを持って、私の肌の上を擦った。

かすかな痛みと金属に対する嫌悪感とともに、私はそこに彼女の愛情を感じた。

もう少し切るかいと私が尋ねる。

もういいわと彼女は言った。

そしてそれは終わったのだ。


もしあの時その先へと進んでいたのなら、彼女はどうしただろうか?
私のために救急車を呼んでくれただろうかそれとも私を解体して処分しただろうか。

結局しばらくして彼女は家を出て行ってしまった。
私は本当に仕事が忙しかっただけで、彼女以外の人間と付き合う気などなかった。
その事は伝わっていたと思うのだけれど何かが足りなかったのか。
私は大事な人を失ってしまった。
いや失ったからこそ大事だったことがわかったのだ。
つくづく私は愚かな人間である。

今私の手元には彼女の包丁が残されている。

それ以外は全部持っていってしまったのに。
手紙も何もなく、ある日私が出張から帰ってきたら、机の上にこの包丁だけが置いてあったのだ。

正直に言って意味がわからなかった。
だから彼女は出て行ったのだと私は思った。

無気力になった私は机の上にある包丁を眺めながらしばらく過ごすことになった。

そうして何日か過ぎた時についに決断を下すことになった。

この包丁をどうするべきだろうか。
捨てるべきか。
売るべきか。
引き出しにしまっておくのか。

そして使うべきか。

私は迷っている。
これは未練なのかもしれない。
いや確実にそうなのだろう。
失ってしまって二度と得ることのできないものに対する最後のつながりがここにあるのだ。

信じてもらう事は難しいかもしれないが、私は確かに彼女のことが好きなのだ。
捨てたくないし、他人に触られたくもない。

であるならば、大事に箱の中にしまっておくのか。
しかしそれはきっと彼女が望むことではない。

失敗してしまった私にできるのはきっとこれを使うことだけなのだろう

そして私はついに意を決してその包丁に触れた。

冷たく光るその金属の塊はだけども、どこか熱を持って躍動していた。

私はそこに彼女を感じた。
確かにこの中に彼女が存在しているの私は見た。

包丁の束を握った、そして彼女が以前してくれたように、自分の首筋にその腹を当てる。

冷たくて、暖かくて私の胸が締め付けられ、そして鼓動が早まっていく。

幸に材料はあるのだから、私は久しぶりに料理をすることにした。
最初の頃は2人で作っていた料理もいつの間にか彼女1人の作業に変わっていたことに、今更ながら私は気づいた。

私の記憶の中では、いつまでも幸せであったけれど、彼女にとってはそうではなかったのだろう。

私は彼女の束をぎゅっと握りしめた。

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