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小説 一縷の望み

 太宰治の人間失格を読んだ友人が言った。
「暗いだけの話だった」と。
 学生時代の私にとって、それは幸せ者の感想でしかなかった。
作中の彼は、人間として生きるにはあまりに足りないものだらけの欠陥品で、周りを見下しているようで、自分を愛せないのをごまかしているだけの、ただの人間のなり損ないだった。
だからこそ、あの作品を読んだとき、まるで自分のことを書かれているようだった。
 私の陰湿な性格は人間失格の主人公、「葉蔵」のように道化を使い、人の群れの中に紛れ込むしか社会で生きていけない欠落者の証だ。
読めば読むほどに、自分のみすぼらしさを浮き彫りにされる。暴かれたこの情けない姿をあの作品だけが気づかせてくれた。
 救われようのない孤独。
太宰自身がそれを抱えたまま生きたのだ。
彼の半生はまるで自分がこれから辿る物語のようで、涙が出た。絶望ではない、これは共感。足りない欠陥品をただ淘汰するだけのこの世で、生きなければならない人生の慰めになる。感動の涙だった。
 誰かと重なる運命を持たずとも、読み返せば彼は物語の中で苦しみ生きている様を見ていれば、不思議と一人ではない気がした。
 そうやって物語の世界に没頭したおかげで、私は作家になり、今年、五十を迎えた。
作品に没頭するあまり、何度も喀血を繰り返したというのに、忙しさにかまけて病院を後回しにした結果。
肺がんが発覚した時には、もう余命幾ばくもなかった。
悲しむ家族はいない。恋人もいない。振り返ってみれば、人間失格の主人公のように女性と縁はなかった。
それでもネコナデ声で媚びを売る女性には何度かであったが、どうしてもその女性たちを好むことはできなかった。
たくさんの本を読む、綴ることが以外に楽しいと思えることが私には、何もなかった。
 肺がんはとにかく息が苦しい。息を吸い込む度、ぜぇぜぇと喉がからみ、息ができない。もういっそ死んだ方が楽だと、私の心を折るのに時間はかからなかった。
 死を意識してからは、人生を振り返ることが自然と多くなる。毎日、毎日、延々と書き綴った物語を愛してくれた読者はそれなりにいた。
ファンレターをもらい、あなたの物語に救われたといわれたこともあった。それは私があの太宰の小説を読んだときの思いと重なり、それだけでも意味のある人生だったと思わせてくれた。
それなのに、さみしさに駆られるのはどうしてだろうか。心にわだかまりを抱きながらも、体は弱っていくばかりだった。
夕月を見ていた。カレンダーは七月七日、七夕である。今日は特に喉の調子が良くない。
咳を繰り返すうちに喀血し、ナースコールを握った。
咳き込みながらこれが最後かもしれないと予感した。すぐさま、看護師が駆け付け、確認をする。
「石井さん! 石井さん! 意識はありますか」
 私は必死に看護師にこたえようとするのだが、声が出ない。代わりに喉からあふれるのは血ばかりだ。
 血のあぶくを吐いているうちに、意識がもうろうとし、視界がぼやけだした。
この期に及んでも私は頭の中で後悔している。手に入れたものすべて、胸を張って誇れるものだと思っている。なのに、どうして。そう疑問に思えば思うほど、殴られるように頭が痛くなった。心電図の音がやけに遠く聞こえる。他には何もない。
 看護師がしきりに私に呼びかける。
「聞こえますか? 石井さん。聞こえますか?」
 やけに声が遠い。ぼやける視界が闇に包まれ、ようやく人生を終えるのだと、涙がこぼれた。

 重い瞼をあける。
 体が重く、頭がくらくらとしてめまいを起こしながら、あたりを見渡す。
「お目覚めですか」
 火鉢を挟んだ向かい側に、白い着物に身を包む妙齢の女が柔い優しい声色で話しかける。
「ここは?」
布団に寝かされていた私は、ぼんやりと天井を見上げた。
黒く塗られた梁は太く、がっしりとしていて、見渡せばどこかの昔話に出てきそうな古民家のような作りの建物だ。
「あの世です」
 彼女は伏し目がちに私に微笑んだ。
「……ああ、やはり。私は死んだのですね」
正面にいる女の顔が、薄暗がりのせいでよく見えない。けれど、よく通る声をして華やかな雰囲気が美人だと想像させる。
言い迷い黙り込んでいると、女は話し始める。
「私のこと、覚えてます?」
 私はいまだ呆然とする頭で、「いえ。申し訳ありません」と確信を持てず、うろたえながら答える。
 彼女は赤い唇だった。紅を引いているわけでもない。それなのに、彼女の口は赤く染まっていた。彼女の吐く息は白く、かすんでは消えて、かすんでは消えていく。ここは寒いのだろうか。起き上がり、布団から出て火鉢にあたる。 
火鉢の熱さで自分が冷え切っていたことにその時、初めて気が付いた。
 さらに指に息をかけて温めようとするのに、息は凍るように冷たい。視線を女に移す。
 さらりと耳にかけた長髪がさらりと滑り落ち、私を見つめる大きい黒い瞳に射抜かれたとき、既視感を覚えた。郷愁、心がどろどろと蝋のように溶けて、ふいにこぼれた涙を腕で拭う。
「どこかで……お会いましたか?」
思い出そうと、記憶を巡らせても思い当たることがなく、泣いたことを悟られないよう俯いた。
「ええ、あなたの後悔の人生の中で」
 彼女はそういって、酒を勧めた。
 私は起きたばかりだというのに、手元にあった酒杯を手にした。私たちは悲しげに笑いあい、互いの酒杯を手にし、お互いに酒を注ぎあい、同時にぐいっと飲み干した。
 簡素な白い着物ではあったが、その女の華やかな美しさから花嫁のように見え、三々九度を交わしたようだ。
「後悔が残らないように生きようと思ったんだ。私は死んだら真っ先にあの世に行けるように、これでも未練なく死ねるよう努めたんだ」
 酒を飲んだ途端、饒舌になり口が話し出す。
「それはどうして」
 酒で酔ったのか女の顔が赤く染まり、潤んだ目で私を見つめてくる。
 涙で濡れる声で女はもう一度「なぜ?」と問う。
「大事な人が、いなくなったから」
 酒の力のせいなのか、これまでの人生でそのことを決して口にしなかったせいか。自制心がすっぽりと抜けおち、口から今までの心の泥を吐き出すように語りだす。
 私の両親はできのいい親ではなかった。嫌味っぽいといえば、まだましな言い方だろう。ねちっこくなめるように子供を監視しては、重箱の隅をつつくような屁理屈を並べ立て、いちゃもんを付けてくる。
時にはそれは暴言になり、暴力になっていった。
 けれど、けしてそんな親が咎められる環境ではなかった。子供をおもちゃにするのは親の特権とでも思うのが、当たり前の認識。
 田舎という閉鎖的環境も相まって、偏執的な考えがそこかしこに蔓延って、もう手が付けられないほど誰しもが歪んでいた。
 特に女性蔑視がひどく、妹は客人の寝屋に呼びつけられては泣いて部屋から出てくることも多かった。けれど、私が家長である父に逆らおうものなら、村の大人が集まり、二度と口答えなどできぬようにと暴行にあう。
時にはそれで死人も出るほどだった。
そうやって恐怖でがんじがらめにしては、異端分子を殺す。よどみ歪んだ価値観の中、この村から出る算段ばかりを巡らす日々。
 十八になり大学の推薦状を恩師にいただき、自分だけが村を離れることとなった。その頃には妹は何度かの堕胎を繰り返し、子供も産めない体になって、家の中で「役立たずの能無し」とののしられるようになっていった。
 大学に通うようになってからは、そんな妹と隠れて文通をしていた。

「寒気ことのほか厳しく
三寒四温の候
お兄様はお元気で新年をお迎えでしょうか?
お正月に帰らぬと聞いた時には、寂しく思いました。
けれど、お兄様にはやらねばならぬことがおありなのでしょう。
至らぬ私では図れない物事を懸命になさっていることでしょう。
けれど、どうか、ご自愛ください。
あなたはたった一人の私のお兄様なのですから。
今年も幸多い年でありますようお祈り申し上げます。
                       美琴」

 妹は返事も待たずに延々と私に手紙を書き続けた。それは自分を助けにくるのを忘れるなと暗に言われていたのだろう。

「立秋とは名ばかりの暑い日が続いています。
朝顔がしぼんでは花をつけ、しぼんでは花をつけを繰り返し、命が終わるその時を待っていているようで。
ただその様が妙に心にきてしまい、映し鏡を見ている気持ちになるのです。
お兄様は、ご多忙なのでしょうか。
いつか私を迎えに来てくれるのでしょうか?
私はいつも恐ろしく身震いし、日々に耐えてその時を待っております。
それでも女としてのお役目も果たせない私が、この先を生きてもなんの意味があるのかと時折、考えずにはいられないのです。
お兄様、お兄様はそれでも私と一緒に逃げてくださいますか?
                            美琴」

その手紙には妹の不安があふれていた。
 私は返信を書く。思いのたけを伝えようと思うまま乱文を書き綴った。
「お前は私のかわいい妹だ。
幼い頃からずっと私たちを大事にしてくれる両親のもとで、愛されて生きてこれたならよかったのにと、ずっと思ってきた。
だから、お前を見捨てて自分だけ幸せになどならない。
昔から、私の家族はお前だけだ。
お前を見捨ててまで幸せになろうと思わない」

手紙にはそう書いて郵送した。
 その後、彼女からの手紙はぱたりと来なくなり、代わりに届いたのは両親から妹が首を吊ったという、訃報の便りのみだった。
 入道雲が唸り声をあげ、夕立を降らせる。しめり気を帯びる濡れた服が重く、流れ落ちる涙が雨粒と混ざって、嗚咽さえも雨音に殺される。
悲しみがこの体に寄生し、内側から水分を吸い上げて肥大していく。そのうちカラカラに干からびて指先で触れただけで、この体はバラバラに砕け散る。
 彼女は優しい女で甘え上手で、それなのに私以外を怖がり私に依存しきっていた。私はそれを重く苦しいと感じているのに、なぜだか愛されていると喜んでいた。
肌が白く、恥ずかしがり屋なため、伏し目がちに笑う。その頬を染めてはにかむ愛おしい笑顔。
そんな彼女を亡くしたことを、私はどう受け止めればいいのかわからない。
 太宰治の人間失格を読んだとき、自分のことが書かれているのかと思った。
 心中し、自分だけが生き残り、初めて愛した人を失った葉蔵。その彼が生きた半生が、これから私の辿る人生なのだと。
 あと追うこともできない情けない自分は葉蔵よりも劣る存在なのだろう。
心の中で願った。どうか死んでも私を許さず恨み続けてくれ。
そうやって恨んで嫌って、私をあの世で待っていてほしい。この罪悪感をそうでなければ許せそうになかった。そうやって私は生きてきたのだと、女に話し終えると生前でも流せなかった涙があふれ止まらなかった。
 嗚咽を吐きながら、肩で息をしていると彼女が口を開いた。
「お兄様、もう、もういいんです」と。
 もう過去になってしまった美琴の姿がそこにはあった。
「許してくれ、すまない。許してくれ」
 声を荒げ縋るように抱き着いた彼女の肌は冷たいままだった。
「すまない。すまない」
「お兄様、もういいんです。もういいんですよ。自由に生きても、幸せになっても」
 慟哭は絶えず、その空間に鳴り響いて、濡れた視界が映したその姿は昔と同じ、はにかむ変わらない笑顔だった。
「私はあなたのせいで死んだのではありません。ただ、耐えられなかっただけなのです。だから私が許してほしいんです。お兄様、私を許してくれますか? あなたを待てずに逃げた私を許してくれますか?」
 手を伸ばし、触れようとした瞬間、心電図の音が聞こえた。
「石井さん、意識戻りました」
眩しいライトで目の中を照らされて、眩しくて顔をゆがめる。
看護師があわただしく、私の名前を呼び、医者が「奇跡だ」とつぶやく。私はあの世から引き戻されたのか、それとも単に夢を見ていただけなのか。
判断のつかぬまま、呆然自失とするばかりだった。
あれは、夢だったのか。
 わからない、どう判断していいか私には理解が及ばなかった。
その後、私は退院できるほどに回復し、抗がん剤治療は必要なものの、自宅で執筆できるまでになった。
妹に許されたいという願望が見せた今際の際の夢なのか、それともあれは本当にあの世で彼女が私に幸せに生きてほしいと現れたのか、私にはわからない。
けれど、いまだ耳から消えてくれないのだ。彼女が言った「許してくれますか?」という一言が。
だからこそ書かなければいけない。
物語に救いを求めた人生を、残された短い余生を、最後の一瞬まで後悔など抱かず、笑って許せるように。


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