当たり前とは?
母は私にたくさんの気づきを与えてくれる。
先日職場の皆さんに、母のことでご迷惑をかけることがあると思いますと、改めてお詫びとお願いをしてきた。
お互い様だから大丈夫だよとみんなが言ってくれて、そればかりか大変だと思うけど無理しないようにと労ってもらえた。とても理解のある職場で、私はとても幸せ者だ。
実家に帰る時の話をしていて、そうやって帰ってあげれて偉いねと言われた。そういった人にも、私みたいに実家が遠くて調子の悪い親持ちの親戚がいるそうで、どうやらその人と比べているらしい。
その人は病院から連絡があっても仕事が忙しいからと帰ることもないそうだ。普通は(私みたいに)帰るんが当たり前だよねと言っていた。
普通かぁ。当たり前なんかな?
帰らないという選択をするまでになにがあったのかは、当人同士でないとわからない。そこにたどり着くのにもいろいろあっての結果なので、その親戚の人達にはなにがあったのだろうと思ってしまった。
私もいろいろあって、心を病んでしまう所までいってしまった。一時は音信不通だったし、憎んでいた。メンタルトレーニングを受けて、憎しみを手放そう、自分の人生を生きようと決めてから、やっと母と向き合えるようになっただけだ。それに無視していても病院に迷惑がかかる。うちの問題に病院を巻き込んでしまうのはおかしいので、私が動いているっていうだけなんだよね。
結局は、どこをみて行動していくかってだけなんだと思う。母や兄のように、自分が自分がって言ってたら結局社会に迷惑をかけてしまう。
そうならないように大概の人はある程度自分を抑えながら動けるのだけど、かといってそれが当たり前でもないわけだ。
親子の問題のようでその根っこにあるものは、育ってきた地域への愛着や、日本っていう国への愛着も関係しているんじゃないかって、最近思うようになってきた。
どこかへの帰属意識っていうものは、自分の行動を自制的にしてくれて、全体がうまくいくためにはどうしたらいいのだろう?と考えるきっかけを与えてくれるのだと思ってる。
社会の最小単位が家族だから、そこでいびつな関係が生まれてしまうとなかなかうまくはいかないだろう。
いきすぎた個人主義と個性の尊重は、疲弊していく人を増やしてその場所を衰退させていく。島根に生まれてなくて、普通にとか当たり前にとかをすんなりと受け止められる家庭環境だったら、このことにも気付けなかったもしれない。普通も当たり前も、その人にとってであって、ひとりひとり違うんだもん。
視野を広く持ちながら今目の前のことに取り組む、その積み重ねが自分らしく生きることにつながっていくと、私は信じている。