母が軽々しく死ぬというのはなぜなのか?
前回の帰省で死ぬ死ぬ詐欺にあって、お母さんが死ぬって脅すことになんであんなに抵抗感がないのかずっと引っかかっていた。
うーん、となっている時に旦那が日本でどうして土葬から火葬に変わったかの由来を話してくれて、あー!!と思い出したことがあった。
我が家のお墓はなぜか2カ所にあって、祖母がなくなった時に1カ所を墓仕舞いして、1つにまとめた。
おしまいにしたお墓は砂地で骨壺を埋めた後は何度か下に砂が落ちていくので穴が空いてしまう。その度に、砂を足して埋めていく作業が必要になる場所だった。
不思議なことに、砂が落ちて穴があくと、母の夢の中に亡くなった誰がが出てきて墓に来いと言って教えてくれる。その教えてくれ方がエグくて、墓参りに来ないと手首を切って死んでやるとカミソリを手首に当てながら言われたから見に行ってくる、みたいな感じで、来ないと死んでやる系のことを言われたそうだ。
それで行ってみると、砂が落ちて穴が空きかけているので砂を持っていって足すのだが、夢に出てきたと聞かされる度に、私はすごくこわいと怯えていた。
母はこんなふうに、実の母親だけでなく亡くなった人からも死ぬという言葉を使って脅されるのが普通になってしまって、簡単に死ぬと言って脅せる人になったのだろう。夢で出てくるって、死ぬと脅せば言うことをきかせられるという考えが潜在意識に染み込んているってことだからね。これは、幼少期からのすり込みが大きいかな。
どんな言葉を選び使っていくのか。そこも含めて人は自分を作っていき、そうやって作ったものを他人から評価される。
使ってはいけないとかやっては駄目なことを教えられても、それが当たり前になってしまっていたら、なぜいけないかはわからないだろう。ましてや、やさしい世の中で叱られることなく許されてしまったら、気づくチャンスはますます遠ざかってしまう。負の連鎖だ。
やっぱり健常者でも障害者でも誰であろうと、駄目なものは駄目と通していかなければならないことはあるのだ。その場での相手のためにという思いやりからの行動が、相手のためにならないだけでなくまわりの人にも影響してしまうかもしれない。
84歳で癌と闘病中の今だからこそ死が身近なものとして感じられて、死ぬと脅すのは最低だと伝えた時に受け止めてくれたのかもしれない。
死んでやると言われて本気で怒鳴って叱りつけたあの夜から、母の言動が少しずつ変わってきているので、私はそう思っている。ありがとうって言葉が増えてきたのは、すごい変化!
環境が違って親も違っていたら、お母さんはどんな人になっていたんだろうと考える時がある。基本は働き者で一生懸命だしやさしい人なので、孫に囲まれて暮らしてたのかなぁ。まあ、そうなったら私はきっと生まれていないのだけど、時々ふっと頭に浮かんてくるのだ。
母を見ていると、しっかり自分の軸を持って自分の人生に責任を持って生きようと自戒するし、生きれるようになれた。
自分の母親なんだけどお母さんは育ち直し中で、私がもう一人大きな大きなわがままな子どもを育てているみたいだ。私にも学びはたくさんあって、子育ては親育てっていうのを改めて感じている。自分を癒しながら母も癒していく、そんな感じ。
お母さんの中のインナーチャイルドがたくさん笑ってくれてたらいいな。