いまは亡き愛猫は、毛布や、時には私の衣類を敷いて横たわるのに、たくさん皺をつくった。人間のものは取り上げてしまうが、猫用の毛布は、退いている時に皺を伸ばすと、明らかに「あ、それせっかく…」という残念そうな顔になった。もっとも、彼には人間のものと自分のものの区別はほとんどついていなかったので、私の布団などにどすんと丸くなっていることもよくあった。だが、掛布団の方は自分の体重でほどよく沈むので皺をつくることもなかった。つまり、あの毛布の皺と言うのは、コートをかきよせるように、くるまるつもりでつくったのだろう。
今日はフランスの大統領選だ。明け方には決着がついているだろう。マリーヌ・ルペンが追い上げている。決選投票まで縺れこむのも必至だろう。彼女の主義主張は、私は理に適うとは思えないことも多いのだが、ただ、選挙というのは、政策を精査し、よく比較検討した上で臨む人ばかりではなく、まあ○○党ならそう間違いないだろう、で大ざっぱに決めたり、隣のおばちゃんに頼まれたから、とか、何かやってくれそうだから、とか、特に重要なのが実は”虫の好く好かない”だ。
私はトランプとヒラリーが競った米大統領選でも、このままだとヒラリー負けるな、と時々思ったが、彼女はどういうわけか、日本語でいう「虫が好かない」という反発を、とりわけ同性から食らいやすい、と評判だった。私にも同じような印象があった。言うまでもなく、印象というのは曖昧で根拠もない、「だまし絵」みたいなところもある。だが、選挙予測では、そのいいかげんなイメージを、それでも一考する必要もあったりする。
私が、最初にこれはまずいな、と思ったのは、まず咳き込んで声が出なくなったヒラリーの姿が全世界に放映された時のことだ。女性には務まらないハードワークという”印象”のことではないし、それはまだ挽回の余地もあった。あれは、バイデンのおじいちゃんがヨタヨタするのともまた違って、ヒラリーの神経質で張りつめたところが露呈した感があったのだ。「虫が好かない」が曖昧過ぎなら、彼女はどうも包容力に欠けた女性に見られがちで、あの咳き込み方にも、私は一抹の哀れも感じたが、嫌いな人にはまさに「だってもうすでに精一杯じゃないの」にしか見えないだろうとも思うのだ。
レウィンスキー事件の時も、ヒラリーは黙して控え、良妻を演じ続けたが、実は彼女にも不倫の噂がひそかにあり、その人物の事故死が伝えられた際「わっと泣き出した」といわれる、という話が英紙でもこっそり伝えられていた。また聞きのまた聞きではコトの真相は誰にもわからないが、少なくともそんな噂が立つほど、どこか一途に思いつめ、自分一人で決めてしまう、気難しい女だ、という印象もあった。
もうひとつ、大統領選ではマイノリティという”正義”のために、立ちはだかるものを容赦しないという態度をとっていたが、「容赦しない、は、好かれないんだよなあ…」と思っていたら、ホントに負けたのである。私自身、いくらなんでもトランプの方が勝つことはないだろう、とは思っていたのに、しかし、それなら楽に勝てそうな選挙で、蓋を開ければ、多くの白人女性がトランプ支持に回っていた、という結果が出た。やはり「虫が好かない」は、理知的な説得だけではどうにもならないところなのだ。
浮動票と呼ばれる、特定の支持政党を持たない人達がどう動くかは、定評あるシンクタンクが調査しても、当日までわからないところがある。でも、人々の感じ方に訴えそうなところは、注意して見ておいた方がいい。
今回のフランス大統領選でも、マリーヌ・ルペンはやはり存在感も大きく、現職マクロンに肉薄する勢いだ。自分が野良猫だったら「捕獲して、保健所で飼い主をさがしてもらった方がいい」と言いそうなマクロンよりも、すぐ餌をくれそうなマリーヌ・ルペンの方になつくだろう、という気もする。心細い人間は猫と同じようなものだと知る外国人としては、しかし、反イスラムを掲げて多文化主義の推進に真っ向から挑んだ候補達はやはり警戒するものではある。そのなかでも、ウクライナ情勢が悪化の一途をたどるなかで人々の関心が欧州全体の安全保障と自分達の生活に及ぼす影響に移ったことに対して、右派ポピュリスト、とみなされた候補のなかでこれに対応できたのはルペンのみだった。彼女は父親よりずっと洗練された主張を持っている。ウクライナ危機にあって、彼女のムスリム市民への関心や理解の浅さは隠され、生活防衛意識に訴えかけ、ここで欧州をどう利用するか、マクロンより柔軟に考えているところも強みになった。この勝負はどうなるのか。
私としては、法の支配に厳格な欧州の伝統をきっちり体現するフランスの方が好ましいと思うが、それはフランス国民の決めることだ。ウクライナ情勢は、多文化主義への反動、というアジェンダをすっかり消し去ってしまったが、これはこれで大きな問題で、すぐまたくすぶりはじめるのだ。
多文化主義、というのは、極言すれば、とある朝日GLOBEで紹介されていた実例のように、空気のよい、美しいスイスの山村に住みながら、カウベルがうるさい、あれはスイスの農民による伝統的な牛の虐待ではないか、と役所にねじこむオランダ人をそれでも受け入れることだ。こうしたオランダ人の声がさらに大きくなって、ヨーロッパ基準の飼育法に基づき、カウベルの響きのない村になるのも時代の趨勢だと思うか、それではつまらないと思うか、それは自由であり、村人たちが決めることだ。しかし、実はローカルな感性が、共通基準の名のもとに否定されてしまう、という現象もまた、多文化主義の帰結ではある。お互い刺激しあい、考えを深める、他者の生きづらさを考える、という態度を通りこして「共通基準通りに○○差別をやめろ」は、どこかデリカシーに欠く。どうして共通基準はローカルルールよりも、そこに住んでいる人達にも、妥当性があるのか。心から納得させることができているのか。
例えばCO2規制に関してはあんなに無駄にものを燃やす戦争は例外であり、化石燃料の輸出国ロシアに依存しきっていた国々は来るべき物価高に怯えることにもなった。そうやって、状況次第で価値の変わるいい加減なところもあるのに、ことあるごとに水戸黄門の”葵の御紋”のように”グローバル基準”をひきあいに出されたら、やがては「上様の名を騙る不届き者、かまわん、斬って捨てい、出あえ、出あええええっ」と逆ギレされる、というのもまたグローバルなパターンではなかろうか。というより、自由を愛する人々が、実は”グローバル基準”にあぐらをかくのは、どこか怠慢でさえある、と私は常々感じている。『水戸黄門』は言うまでもなくフィクションだが、人々はローカルな問題を親身に解決してくれる権威が常に必要なのである。
ディーゼル車廃止?出あえ、出あええええっ、の号令はSNSを通じて広がり、ついにはあのイエロージャケット運動という打ち毀しが起こったわけだが、収拾に手を焼くことになったマクロン大統領には、ローカルな感性や、グローバル基準に譲る負担を考慮するデリカシーも、そもそも調整役としては必要なはずだった。彼は環境活動家グレタ・トゥーンベリではなく、フランス大統領だったのだから。
問題は、皺寄せ、である。
ところで、このエッセイは、もっと短く終えるつもりだった。やはりフランス大統領選で、サルコジ候補が最有力とみられた時に、フランス語中級のクラスで(私はどの語学でも万年中級なのだが)、ほんとにサルコジになったら、これでフランス政治は大きく変わる、と話していた生徒がいた。英紙でも、フランスの保守系大統領というのは戦後も、休暇ごとに田舎の荘園に戻って過ごすような、伝統的なスタイルを踏襲してきたのが、サルコジはユダヤ系のビジネスマンだった。
選挙が終わるや彼は妻と離婚し、スーパーモデルだったカーラ・ブルーニを娶った。見せびらかしでロンドンに連れてこられた彼女は、大統領の少し後ろで優しく微笑む控えめな妻で、英国じゅうのマスコミが彼女のスーツやドレスで大騒ぎだったが、その少し前に美容院に行った時に渡されたゴシップ誌に、なんとサルコジの元妻の方のビキニ姿のスクープがあった。全身皺だらけ、特に腹部には細かい皺がたくさん寄っていた。子どもを産んだ女性にはよくあることで、彼女は最初の結婚でもサルコジとの結婚でも、何人もの子どもを産んでいる。だが写真には何のリスペクトもなく、セレブの写真ばかりのなかで、皺だらけの五十女の姿を晒してしまうのはいかがなものか、と、あれは忘れがたいのである。
「スーパーモデルとして各社と契約していた時には、がんじがらめでした、ちょっとした切り傷は勿論、肌のくすみや皺を鏡で見つける度に大騒ぎでした」と、大統領夫人になってからカーラ・ブルーニは語っている。ああいう選りすぐりの美女と、ビジネスに成功した中高年男性が再婚することを、トロフィーワイフを得る、というらしい。少なくともあのディズニーランドデートの後に公開された元妻の姿は、どこか言い訳がましかった。彼女もすぐ再婚して、サルコジとは何の敵対関係もなかったようで、すぐに過去の人になった。そして、サルコジは新妻の評判を国民とのコミュニケーションにもずいぶん利用していた。つまり、フランス政治というのは、その頃からもう大衆迎合の方向に舵を切っていたとも言えるかも知れない。
問題は、その大衆の程度だ。今回の大統領選はそれを確かめる機会でもあるかも知れない。
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