ローマの休日

NHKのラジオ語学講座を聞いている。
どの言語でも観光案内にはなるのだが、“まいにちフランス語 応用編”で、ボルドーが奴隷も含む、ハイチなどとの三角貿易の拠点だったことも知り、やはりワインツアーでちょこっと寄るくらいではもったいないんだよなあ、と思う。続いてのアルルも、古代からビゼーまでの歴史が重厚に積み重なってきた街で、カマルグ湿地にはフラミンゴもいる。“おフランス”もなかなか一筋縄ではいかない国である。

イギリスにも古代ローマの遺跡はあった。サセックス州のフィッシュバーンのローマ遺跡はなかなか立派で、このあたりまではローマもしっかり支配できたんだろう。日本人観光客も比較的よく行くバースなども、風呂好きのローマ人は見逃していない。ローマの都市整備はロンドンにも勿論及んだし、ランカスターにさえ「北は寒い」と言いたげな浴場跡があった。あそこもまたローマ陣営跡がそれ以降も城にもなっている典型例だが、わびしいくらい小さな浴室に、むしろここまでくると、万葉集転じてさだまさしの「防人の詩」な心境で月を見上げていたに違いないとしか思えなかった。

果たして現在の特急でもそのすぐ先のグラスゴーに進軍される前に、スコットランドの蛮族達はローマ人を追い返したのであって、ハドリアヌス帝はブリテン島を横断するような長城をつくった。

北西のランカスターでは、地球の歩き方が言っていたほど、スコットランドとは別だという意識を丸出しにする人もいなかったが、「ウェールズは行くけど、スコットランドはどうも行きづらい気がする」とナショナルトラストめぐりの好きな小学校の用務員夫妻が肩をすくめていた。甲斐のように険しい山がさえぎるわけでもないのでトンネルなしにサクッと行けそうだし、ウェールズのようにコンビニでも店員たちはウェールズ語でやりとりしてこっちには英語をしゃべるとか、銀行のATMも二か国語とか、そういうことはない、あそこは英語だ。でもなんとなく違うのだろう。

ところでハドリアヌス帝の壁、英語風に言えばヘイドリアンズウォールはどうも壁の向こう側の住民もよく手伝ったし石も運んだんじゃないか、と考えられている。あくまでも示威的な建築で、実際はローカルも協力した、というのは、見かけこそ冷戦中のベルリンの壁のそれとそっくりの見張り台が等間隔で並ぼうと、さすがにローマ人は政治的妥協を決めてから進軍をやめたのだということだろうし、実は同時にイングランド側には、でもな、おまえらはウチのシマだからな、と見せつける機能もあったのではないかと感じる。フィッシュバーンでは小さな女の子の指輪なども出土したそうだが、米軍の高級将校の住宅と前線は全然違うように、ハドリアヌス帝の壁は実にそっけない。さらに、そのどちらも、たとえば同じように海を隔て地中海の向こう側のチュニジアの遺跡のように、ローマの一般市民の生活を感じさせるものがない。

…ということをアルルの円形劇場やネクロポリスこと古代の墓地の話を聞きながら思った。エンターテイメントと墓というのは、共通の文化をもって社会を形成した地域でないとそうも大規模には遺されない。やはり大陸は地中海に近づくほど息詰まるほど歴史が濃縮されている。私はラスコー洞窟は勿論、ベルサイユ宮殿も行かなかったが、自分の専門に限ってもとても見きれないのだ。そっか、ダヴィンチはフランスで客死したのか、なんてこともフランス語講座で聞いた。

東京は極端にそうだが、歴史の重なりなんか、知識と想像力を働かせないと見えてはこない。そして、見えないことはある意味では健全なのだとも思う。いまある営みが見えなくなるようでは、あまり意味もない懐古趣味に堕しかねない。名前をつけ、謂れを知ったところで、生き生きとした歴史に結びつくとも限らない。勝手にロマンを投影しすぎても、埋め立てるばかりでもない寄り添い方を探したい。

だが、私の住むような片田舎でもバイパス建設の最中に埋蔵文化財に当たることがある。そのすぐ近くの、小学校の時よく遊びに行った友人のおばあちゃんが、畑仕事の最中に平安初期のものかという骨壷を掘り当ててしまった、という話を聞いていたから、まあそりゃそうだろう、と思ったが、気になって調べると、近くにある、市が緑地指定した、おそらく中世の山城で多摩丘陵の山城を川を挟んで向かい側から見る、その友人の姓の墓がまとまってあるとネットで知った。田舎のことで一帯に同じ姓の人達がまとまっているので、私の同級生とあの丘がどの程度の縁なのかまではわからないが、とにかくバイパスはその丘の麓をめぐる予定で、その直前で埋蔵物に当たり、調査で中断されていた。名も無き文化財は調査されてまた埋められるが、けっこうなお屋敷だったあたりが畑になっていたわけだ。そして道路になる。ネット上の噂には他にも、その近くの家の敷地を供出するのに、代々祀ってきた小さなお稲荷さまを移さないといけないことになったが、家人の夢に「ここに移せ」とキツネが指定したという“怪談”があったが、それもそれで、迷信以上にその土地の上で積み重ねられたものを伝えるように私は感じる。ローマは一日にしてならぬ、人の営みはしかし、至るところでそうだろう。

ミヒャエル・エンデの『モモ』を読んだのは、その鬱蒼とした丘をお友達ときゃあきゃあ言いながら駆け抜けたり、まだ田んぼばかりで、緑肥で種を蒔かれるレンゲ畑が春になると見渡す限りの花畑に広がったりしていた頃だが、父は田舎の校長先生だった祖父がよくそうしていたように、この『モモ』という本がいいそうだから、そこの本屋さんに注文しなさい、と、母にも「もう小学生だから」と、自分一人で本屋さんに行って自分で注文を出した記念すべき本だ。いまもなお読み継がれ、なかなかいろんな読み方があるもんだなと思ったりもするが、はじめの方だけちらっと読み返して思ったのは、ドイツの話にして、モモという浮浪児が住みついたのが、古代ローマの円形劇場の跡だったことだ。

エンデは皮肉たっぷりに、もう忘れ去られ、壊れかけ、たまにバスで乗りつけた観光客がきてガイドの話にパチパチ写真を撮って帰るだけ、という描写をしている。勿論アルルやヴェローナにあるような、立派な円形劇場ではないのだ。だがそれが、劇場であることをモモはよく知っている。古代の人たち同様に、自分にとっても、だ。それが、あの物語の始まりなのだ。

名もない遺跡も、名もない浮浪児も、現代都市は許容できない。保存、保護、という名目で、自分がその価値をいちばんわかっていることを前提に管理下に置く。その窮屈さをエンデは警告した。

ローマの休日、というのは何もない贅沢だろう。だがしかし、ローマである。ちっぽけな、取るに足らない、車だと数秒で通りすぎるところに、また埋められてしまった場所に、腰の曲がったおばあちゃんが大事に世話してきた田畑があり、塚がある。そんなにたくさんの情報のなかでは疲れてしまうし、それは当然だ。

でも、自分の住むところくらい、ハザードマップを見るように、少し意識してみたらどうだろう。旅行先のことも、きっとまた違って見えてくると思うのだ。


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