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寫眞小噺 白昼迷宮

どこから話そうか。
私と早瀬の出会いからか? 早瀬が出会った「あの女」のことからか?

順を追ってならば、私と早瀬の出会いからだろうか。

彼と出会ったのは今から十年前、東京のとある下町にある、とある喫茶店でのことあった。
早瀬という男は、背はすらり高く黒々とした髭を蓄えた野人のような男であったが、いつも絣(かすり)の作務衣(さむえ)を着た、それはそれは風変わりな男で、私たちは週に一度その喫茶店に通っては、1杯五百円の珈琲で長い時間を過ごすのが常と言う風であった。




ある初夏の日、いつも気だるげな早瀬の目が、妙なまでの輝きを帯びていることに違和感を感じた私は、「なんだね、今日はやけに活きがいいじゃないか。」と、冗談をくれてやった。
早瀬はその爛々とした目のまま煙草に火をつけると、その紫煙をふーっと吹き出して、「女に、会ったんだよ。」とつぶやいた。




「草履履きの女」は、ふらりと彼の前に姿を現したらしい。
年のころは30そこそこ、桃色と葡萄酒色のセーターと白茶色の丈の短いスカート、スラリと伸びた白い脚には、赤い鼻緒の草履を履いているその女は、まるで子猫の様だったと、早瀬は私に語って聞かせた。

捨てられたのか、迷い込んだのか、その妖美な女は、早瀬と言葉も交わさず、ただ黙って彼の後をついてくるだけだったと言う。
早瀬自身も、それに構うことはなかった。
風変わりな二人が歩く白昼の小道は、どこか浮世離れした不思議な雰囲気があったに違いない。
ちょうど、俗世を捨てた野良犬と野良猫の如く・・・





「それで、その娘を連れて煙草屋へ寄ったんだろう?」
早瀬の行く先はたいがい決まっていた。
四畳一間の小さな借間に住んでいた早瀬は、昼下がりになると3丁目の角にある煙草屋で両切りのピースをひと箱買い求めるのが常であった。
かく言う私の前で彼がふかしている紫煙から、ほのかに華尼拉(ばにら)を思わせる香りが漂っているのはそのためである。
彼は日焼けしたその顔をくしゃっとさせて笑うと、「そうさ、君の言う通りだよ。」とまた口から紫煙を吐き出しながら言った。
「それで、その娘はどうしていたんだね?」

「どうしたって? どうもしないさ。 ただはす向かいあるポンプ井戸に寄りかかって、頬杖ついて待っているだけさ。」

「あれはほんとに、猫みたいな女だったよ。」
早瀬はそう言って、また顔をくしゃくしゃにして笑った。




再び早瀬と会ったのは、それからほどなくしてからのことだった。
彼はいつも通りの絣の作務衣を着て、いつも通り窓に面した席を取り、木製の引き窓を僅かに開けて、口から洩れる煙を外に逃がしていた。
私は彼の前に座ると、カウンターの向こうで苦い顔をして頑張っている給仕係を呼んで冷珈琲を二杯注文すると、「あの娘とは、どうなったんだね?」と切り出した。

「どうって? どうにもならないさ。 尻尾も振らねば、媚びも売らない。 あの女はそう言う女なんだ。」
そう言って早瀬は、どこか少しだけ、嬉しそうに顔をくしゃくしゃにして笑った。


早瀬曰く、「草履履きの女」は翌週も路地裏に立ち、煙草屋へ向かって歩く早瀬の後をついて歩いてきたという。
ひたり、ひたりと、女の草履が鳴る音が、午後の路地裏に響いて消える。



私たちは意外にも早く喫茶店を出た。
例の給仕係が、まるで仁王様の様に怖い顔をして私たちを睨んでいたからだ。
おおよそ、何も注文せずに1時間近くも座り込んでいた、我が友人のせいであろう。
私たちの散歩道は決まっていて、なかでも会館の前の空き地で一服やるのが、二人で出歩く際の常であった。
作務衣の裾からピースの箱を取り出し、マッチで火をつけた早瀬が、「そうだ、あの女、かわいい顔してこれやるんだ。」と、ひょいと手にした煙草をかざして見せた。

煙草屋で例の如くピースを買い、会館の空き地まで歩いてきた早瀬は、きっと草履履きの女の前でも、同じように煙草を出して一服するつもりだったのだろう。
しかし彼は、あの草履履きの女がスカートのポケットから煙草の箱を取り出したのを見て、拍子抜けしたのだという。

女はきょとんとしている早瀬に気が付き、くすりと小さく笑って見せたが、すぐにプイとそっぽを向き、ただ黙って咥えた煙草に火をつけたので、彼自身もマッチを擦って、自身の煙草に火をつけたのだと言った。

「ふーん、そんな娘ならば、会ってみたいものだなぁ」
私は短くなった煙草を踏み消しながら、冗談交じりにそうつぶやいた。
「いいや、会う会わないは俺たちが決めることじゃあないんだな。 きっと女神さんみたいな神聖なものが、誰に会って誰に会わないかを決めているんじゃないかなァ」
無神論者の早瀬から、そのような言葉が出ることに、私は拍子抜けしたと共に、そんな彼にほんのわずかに、嫉妬してしまったことは確かであった。

「今度会ったらよォ、寫眞でも取ってきてやらァ」
分かれ道の曲がり角で、早瀬はそう言って去って行った。
もう街の日は、紅く暮れかかっている。



翌週、早瀬はわざわざ私を電話で呼び出し、喫茶店へ入ると奥の席で、いつも通りの冷珈琲と、いつもなら注文しないような洋生菓子まで、きちんと注文を揃えていた。
彼は澄み渡った眼を爛々と輝かせて、「あの女の、寫眞を撮ってきたんだ。」と嬉しそうに今現像してきたばかりの寫眞を卓上に並べて見せた。


その日、例の「草履履きの女」は、またしても路地裏で早瀬を待つように、または子猫が母猫を待つように、路地裏にしゃがみこんでいたという。
「よう、お前さん、頼みがあるんだけどよォ。 お前さんの寫眞を撮らせてくれねえか? 俺は寫眞家でよォ」
早瀬は、正直が過ぎるというか、いわばあまり嘘のうまくない男だったが、女はそんな彼の嘘を知ってか知らずか、顔を上げるとにこりと笑みを見せ、その時初めて声を発したという。
「それでは、参りましょう。」

早瀬の広げた寫眞を見て、私は初めて草履履きの女と「対面」した。
なるほど、確かに美しい女だ。
飾らない黒髪に、遠くを見つめるような大きな瞳、筋の通った鼻、魅惑的な唇・・・

私があんまりにも見惚れていたのか、早瀬はいつものようにくしゃくしゃの顔で笑うと、「こいつはお前にやるよ。」と言って、草履履きの女の寫眞をまとめて、私に渡してくれた。



喫茶店を出て、早瀬はいつもとは違う方へと歩き出した。

「今行けばよォ、会えるような気がするんだ、俺たちのミューズに。 もし会えたらよ、住所でも聞いといてやるよ。」

『俺たちの』と言う言葉に、いささかの引っ掛かりは覚えたものの、気乗りしない私は黙って彼に手を振って、家路へとついた。
それが早瀬を見た、最後の姿であった。




あの日彼を見送ってからもう二年になるが、いまだに早瀬の行方は分かっていない。
翌週も、そのまた翌週も、彼は喫茶店には姿を現さなかったのだ。
借間の家主に尋ねてみたら、早瀬は先週、あの部屋を引き払ったのだという。
それは私が彼と別れたあの日で、傍には猫のような女が、ぴったりと寄り添うようについていたという。

ここまで書いて、私は筆をおいた。
給仕係の苦い視線が、私を急き立てた。
勘定を済ませ、書きかけの原稿をまとめて、駅の方へと歩いて行く。
商店街を抜け、あの会館の前の空き地に差し掛かったころ、前から親子連れが歩いてくるのが目に入った。
まだ若い母親と、それに手を引かれる幼い娘。
ふと彼女らが私のそばを通り過ぎる瞬間、娘がぴたりと足を止め、私に向かってこう言った。
「鬼に出会いますわ。」
「えっ?」
私はまじまじとその娘の顔を見て、思わず聞き返した。
「鬼に、出会いますわ。」
娘ははっきりとそう言うと、母親に手を引かれていそいそと歩き去って行った。

駅までの道中、閑散とした飲み屋街を歩きながら、私はそればかり考えていた。
鬼に出会うとは何か、鬼に出会うとは何か、鬼とは、鬼とは・・・

ふと鼻先に、女性ものらしいオーデコロンが香ったような気がした。



鬼とは、一体・・・?




寫眞小噺 白昼迷宮 完

SpecialThanks:Hikari Yamagami


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