「可哀想」って言葉はポジティブに使える言葉なのか
わたしは、可哀想という言葉が好きじゃない。
可哀想って何なんだろう?
哀れに思う感じ?同情?
この感情は、果たして他人に対して良く機能する感情なのか?
個人的には、可哀想って言葉は外野が勝手に言ってる言葉でしかないと感じてならない。可哀想という言葉には、リスペクトが含まれない。
そんな印象がある。
側から見て、可哀想ね、って捨て台詞を吐くだけ。その人には手助けもケアも何も施さない。ただ哀れみの言葉を投げるだけ。それだけ。
私には、そんな言葉のように思える。
言われた人は、自分が可哀想な存在だと言われる。自分の状況が、生まれ持ったものが、恵まれていないということを突きつけられる。
話者が勝手に自分の天秤で他人を比較して、その比較結果として勝手に可哀想な存在にする。
誰が見ても絶対的に可哀想だと言えるものはあるんだろうか?
コントロールしようがないものによって、無念にも自由や尊厳、命など人間にとって不可欠大切なものを、理不尽にも奪われてしまった/与えられなかった人たち?
でも、その人生を生きるのはその人自身であって、外野の他人ではない。
その人が自分自身の幸せとは何か、不幸とは何かを決めるものだとするならば、どうして他人が他人のことを可哀想だと言えるのだろうか。
可哀想という気持ちは、一見、助けやケアという行動へと導くものにも見える。
でも本当にそうなんだろうか?
上から下へという構図が見える。
それに、可哀想という気持ちはどこか他人事なように感じる。
ケアへと導く感情というのは、可哀想というような気持ちよりももっと直感的で破壊力のあるものなんじゃないかと思ったりする。
可哀想って言葉って、ものすごく自分勝手な言葉に聞こえてしまうのは私だけなのかな。
可哀想って言葉は、突き放す感じがあるのは私だけなのかな。
みなさんはどう思いますか?
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