メンターと、それにまつわる苦い話
昨日知り合った友達がチェットベイカーカルテットのHappy Little Sunbeamという曲をすすめてきた。しかもオルタネイトテイク。なぜオルタネイトなのかというと、ピアノソロの入りがファーストテイクのそれよりかなり劣っているというのが面白いからであった。確かにファーストテイクはある程度旋律としてもコードトーンとしても説得力のあるものだといえる。オルタネイトテイクはどうだろう。ピアニストのラス・フリーマンはファーストテイクで既に演ってしまったソロをそのまま土足で踏むわけにはいかないという思いに駆られたのだろう。コードトーンだけ曖昧に、そして幾分消極的に弾いていた。偉そうなことを言うけれども、その気持ちはよくわかる。
「ちょっとぼーっとしてたんじゃないか、コードトーンだけうっすら弾いてるだけだし、あまりいい旋律が思い浮かばなかったのかも」と言った。そしたら彼は「そういう意見初めて聞いたわ。周りの人は有名なプレイヤーをヨイショする人ばかりだから」と言っていた。
ひどいアドリブで思い出す話が一つある。コルトレーンはかの有名なGiant Stepsをレコーディングするとき、その当日に譜面をトミーフラナガンに渡したといわれている。その結果フラナガンはあまりいいソロが弾けなかった。序盤はそれでもある程度根気強く旋律を奏でているものの、数小節後にはハーモニーだけをパラパラと弾く有様であった。それとは対照にコルトレーンは、ひそかに練習を重ね、コルトレーンチェンジズという難解なコード進行におけるアドリブを完全にモノにしていた(オルタネイトテイクでもほとんど同じと言っていいほどのソロだったが)。意地が悪く、極度にナルシシストであり、また一方で熱烈に信仰する師匠を求めている彼の性格がそうさせたのだ。彼はメンターを欲しがった。フラナガンはコルトレーンより年下だった。ちなみにマイルス・デイヴィスとコルトレーンは同期だ。彼の消息を決定づけたのはラヴィ・シャンカルによる「君は混乱している。音楽はそんなに苦しいものじゃない。」といった忠告であった。中期から後期にかけてのコルトレーンはかなり精神世界に傾倒していた。「Om」「Ascension」「Cosmic Music」などを聴いてみればすぐさまわかるように、神聖でまた実験的なことを仕掛けていた。しかしながら彼の、美しいものに向かっていくアティチュードはあまり時代とはマッチしていなかった。十数人の黒人による「oooooommmm!!!!」という合唱なんかを交えたりしていて、どこからどう聴いても空回りしているように感じる。しかしそれは仕方のないことだった。空回りすればするほど、より激しい空回りを見せなければならないのだ。近くで見ていた小綺麗なねえちゃんがいくらドン引きしていようとお構いなしに。マジカルラブリーの野田クリスタルが審査員達の前で突然上裸になったように。ちなみにバカリズムは、お得意の大喜利におけるテクニックを語るときに「スベっても『ふーん、これはハマらなかったか』という顔をしろ」と言っていたそうだ。
Giant Stepsをレコーディングしたときのバンドは、メンターを欲しがる彼の性格にとって、あまり功を成さなかったと言える。
フラナガンは20年越しに、無念を晴らすような形で「Giant Steps」というアルバムを出した。大きな勝負に出たわけだ。結果は大成功。冒頭の華々しいBM9のコードがすべてを物語っている。「ナイーマ」「カズン・マリー」などコルトレーンの18番的ナンバーに加え(残念ながら「カウントダウン」は無かったが)、「セントラル・パーク・ウェスト」というこれまたコルトレーンチェンジズのムードをたっぷりとたたえた曲も添えられている。
その時コルトレーンは過去のジャンキー経験がたたって、享年40歳ですでに他界していたので、フラナガンのいくぶん挑発的ともいえるこの大仕事をお目にかかることはなかった。ジャズファンの間ではしばしば「天国のコルトレーンはこれを聴いたか」という言葉で語られたりするものだが、僕が思うに少し違う。フラナガンからすると聴いてほしいわけがないのだ。葬式をしたいわけでも、ある種の捧げものをしたいわけでもなかった。あくまでひっそりと、背徳感からくる子供じみた薄ら笑いを浮かべながらレコーディングに臨んでいたはずだ。