血がしたたるほどに…
みぞおちからへその上られんまでが、まるでミキサーにかけられてるかのよう。そんな苦しみ。
ストレス性胃炎。だからしょっちゅう吐く。
[ゲロ女]
そんな私が、学校やら家やら色んなところで、色んな人につけられたあだ名だ。
嫌だ嫌だ。もうどこもかしこも、なにもかも嫌だ。
家も嫌だ。学校も嫌だ。バイトは、嫌々行くたび、体調不良で休んでばかりなので、次々とクビになる。
もうどこに行けば、私は居ることができる? この小さな屋根裏の、ガラスのトレーのように小さな窓からしか、外が見えない自室しかない。
そこにこもっていた私だが、思い出したように、何年前のだか忘れた錆びたカッターを取り出した。
文句なしに心はズタボロ。しかし、見える自分には何の変哲もない。
嫌だ。何か傷ついていてほしい。
(確か横向きに切ると、神経を傷つけるかもしれないので、その後の生活も考えるなら、縦に切るといいとかなんとか…)
そんなことを考えながら、手首というより肘に近いところに、カッターの刃先を縦にして押し当ててみる。
そしてそのままゆっくりと引いていく。
あまり痛みは感じない。よくよく肌を覗き込む。そこには、ほんの小さな赤黒い谷間ができていった。
刃をどけて、さらによく見てみる。赤黒い線と、その周辺が赤味を帯びた緩やかな膨らみになっただけだった。血は出ていない。
一度にスパッと切るより、何度か繰り返すのが良いのか……?
カッターの刃をさっきの位置に浅く当て、何度か引っ掻くように切った。
十回、二十回、三十回、四十回……。
不思議とあまり痛くない。
すると、徐々にプツプツと紅い血が出てきた。
つまんでみても、滴るほどはにじみ出ない。が、確かに小さな傷跡ができた。
自分の傷というより、特殊メイクのようにも見えたが、不思議と私の気を済ませるものがある。
それはほんの小さな赤黒い線になった。今の自分には、無いよりは心の釣り合いがとれる。
小窓からさあっと風が吹いた。夏の夕暮れだった。
どうしたらいいか。とにかく眠ってみよう。
そう思った矢先だった。小窓が叩かれたように、バンッという音がした。ぎょっとして視線だけを、恐る恐る向けた。小さな白い手が窓べりを掴もうとしている。
私の喉はひゅっと音を立てて、息を吸い込んだが最後。驚きおののいて、声も出ない。というか、呼吸が止まった。
小さな手は二つになり、ズルズルと窓から侵入してくる。そして、手の先からの姿が徐々にあらわになっていき、それは女の子の姿になった。
白くて長いワンピースを着た、つば広の白い帽子を被った、異常なほどに色白の女の子。彼女はこれまた白い日傘を背負い込んで、よろよろ部屋に入ってきた。
「ふう……。随分としょぼくれた窓だのぉ。じゃが、これならわしぐらいしか入れないじゃろて……」
手をぱんぱん払いながら、女の子は言う。十歳かそこらぐらい? だけど、どう考えても普通の女の子には見えない。
女の子は日傘をぱんっと開いた。そして私と目が合うと、瞳を輝かせて、無遠慮につかつかと近寄ってくる。
「お前か? 血の匂いの主は! うぇ! というか、息しろ! ほら!」
女の子は肩を掴まれ、ガクガクと私を揺さぶる。頭がぐるんぐるんして、ようやく息することを思い出す。
「……は、……はあ……。あ、あ、あ、ああああなたは、い、いいいいったい……」
驚きと恐れがまだ続いていたので、か細いかすれ声しか出ない。
「わしか? 驚かせてすまんのう。まあ人間風に言えば、吸血鬼ってやつかのう」
「きゅっ、吸血鬼!」
今度は、素っ頓狂な高い声を出してしまった。
「おっとぉ! 静かにしておくれ。そうさのぉ。まあ俗に言えばじゃが、の。こっちは血液を糧に生き、日の光が苦手なだけの、ただのいち生き物のつもりなんだがのぉ」
女の子は落ち着きはらって喋る。なんだかお婆さんみたいな物言いと仕草。
「そ、そそそれで……、何かご用ですか……?」
まだ動揺していた私は、思わず変な訊き方をしてしまった。
「それがだのぉ。一言に血液といってもの、わしらにとっては人間の血が一番美味で貴重なんじゃ。が、ほれ、わしはこの通り恵まれん体躯でのぅ」
女の子はひらりと回ってみせた。そして話を続ける。
「当然、わしらの存在が人間どもに、おおっぴらに知られる訳にはいかぬわい。だので、獲物は時と場合を選ばねばいかぬ。しかし、わしが他の吸血鬼と同じ場所や同じ時間で、良い獲物を狙おうとすると、この小さい身体で不利なんじゃ。じゃけどわしだって、たまには人間の血を飲みたーい! だのでのぉ、ちーっとしんどいが、他の奴らがまだ出てこない、このくらいの時間に活動するのが一番! それでふらふらと獲物を探していたら、なんじゃかここから血の匂いがしてのぉ」
私は息をして、多少落ち着いてきた。でも、まだ頭がふらふらする。
「随分とご丁寧に説明されますね……」
「そりゃ、お前さんに変に警戒されたくないからのぉ。実に人間どもは、わしらが人間を襲っては、血を吸い殺すもんだなどと言いよる! 実に人聞きが悪いわい! はなはだ風評被害‼︎ 実際は別の動物の血でも、まあいけなくはないし、人間の血でも、そいつが死ぬほどなんぞ飲まん。お前さんらが、塩を取らにゃ生きてけんのと、せいぜい同じくらいじゃ。まあ確かに日には弱いが、灰になったりもせんし。せいぜい日焼けと日射病が酷いくらいでこの通り! 防御すれば、このぐらいの日差しなら歩けるわい!」
女の子は白い服と傘を見せつけるように、またひらりと回ってみせた。
「んで、それでの、お前さん。その血、自分で出したようだが、そうするぐらいなら、わしにくれんかの?」
女の子は、急に見た目のままの少女らしく、無邪気な顔になって尋ねた。
「……ひ、はい……?」
以外な問いかけに、私はまた変な声を出した。
「ちろっと何滴か舐めさせてくれりゃーいいんじゃ!」
なんという軽々しさ。しかし尋常な考え方をできていないのは、お互いさまである。
だから私は、直感的な拒否感をいだけなかった。
「それは別にいいですけど……、本当に死なないんですよね? というか、私がしてたこと、見てたんです……?」
「おう! ほれ、そこの向かいの家の屋根からのぉ。なんだかよく知らんが、お前さんは血が見たいのかえ? おそらくそうなんじゃろい? しかし、自分じゃまあ、そのぐらいが精一杯じゃ。わしなら安全にかつ適度に、したたるほどの血を、お前さんに見せてやれる。わしも人間の血にありつける。いい取引ではなかろうかえ?」
本当の話? しかし、この子が普通の人間でないことは確かのようだし……。
「さっき、あまり人間に知られたくらい、と言ってたけど……、私が大騒ぎして、誰かに言いふらすとか、思わないのですか……?」
女の子は顔を近づけて、フクロウみたいに目を丸くし、私の目をぐりっと見上げて覗き込んで言った。
「それはなかろうて。お前さんは、その手の人間じゃないと思うからのぉ。何というか、淋しく、しかし綺麗で、優しい目を持ってるように見えるんじゃ」
なんだろう。何だかよくわからない。でも、その言葉を聞いた時、へばりついていた何かが、胸から落ちていくのを感じた。
女の子はギイと名乗った。
ギイは夕暮れの時間になると、律儀に毎日私の部屋に窓からやってくる。
ギイが私の腕を噛む。鋭い八重歯をたてられた白い腕から、紅い血がしたたっていく。
ギイがそれを綺麗に舐めとっていく。
「今日もごちそうさんだったのぉ」
不思議と私の腕には、なんの傷も残らない。
しかし私は、その光景を見るだけでなんだか心が落ち着くのだ。
息も胸も頭も心も苦しいだけの毎日に、そんなお決まりが加わって、日々は過ぎていく。私もそれに慣れていった。
そんなある日の中、ギイがふっと訊いてきたことがある。
「なあ。そういえばお前さんはなんで血を見たい? まあ、わしにはこの上ないお恵みじゃが。しかし、普通の人間は血を忌むもんじゃろ?」
「……、なんだろう……。時々、というかいつもかな。自分が生きてるのか死んでるのか、気持ちではわからないの。でも、自分から血が流れてるのを間近に見ると、あ、私も生きてるんだなあって気付く、ような気もする……? から?」
「そりゃけったいなことじゃのぉ。あれやこれや飯を食って、息をして、あげく外に出てなんやかんやして生活して……、そうまでしても生きてる気がせんのかえ」
「そう……。なんでそんなことを聞くの?」
「いんや、別にの。興味本位じゃ。わしにとって人間は生きる糧、という以外は未知の生き物じゃしのぉ。それに過ぎたる好待遇には、逆にちっと疑心暗鬼にもなるじゃろ? しっかしのぉ、お前の意図が……、まだいまいちわからんのぉ。まあ、わしに害はないとみたが……」
ギイは肩をすくめて、ふらっと彼方へ消えていった。
でも何ごともなかった様に夕暮れになれば、また血を吸いに来るのだ。
そして季節は流れた。
ある日の夕暮れ、いつもの通りギイがやってきた。
「ふうー。夕暮れとはいえ、西日がこたえるわい……」
「いらっしゃい……」
いつも以上に力なく、抜け殻のような私を見たギイが、フクロウみたいに目を丸くした。
「お前さん、どうしたんじゃ、顔。というか、その頭」
私の額には、大きな四角いガーゼが貼ってある。
「転んで落ちて、ぶつけた。学校の階段で。手すりの角に……」
「ほほっ、ドジじゃのう」
私はその一言に、マグマが吹き出るように、急激に頭が熱くなる
。ギイに手元の辞書を投げつけた。
「ぎょえっ! 何すんじゃい!」
それが太腿にあたり、ワンピースに擦れた灰色の汚れがついたギイは、文句を垂れた。
「私のせいじゃない! 突き落とされたんだよ‼︎ 後ろから! クラスの子に!」
「んへ? 何でまたそんなこと?」
「知らないってば! 私が[ゲロ女]だからじゃない? みんなから迷惑がられてるの! 他の子たちにも……先生にだって……みんな、みんなからさあ‼︎ ゲロ撒き散らすなら、学校来んな! だって‼︎」
「んー、ほんじゃ行かなきゃ良かろぉ。わし、学校なんぞ行ったこともないぞい」
「行かない、なんて言ったら母さんに殴られるの! どいつもこいつも……、どこにも……どこに行ったって……、私の味方なんていないんだ‼︎」
なんと惨めな気分。泣きたくなんかないのに、身体はなぜ言うことを聞いてくれない? こんなに感情的になったのは、いつぶりだろう? 頭がぐちゃぐちゃになった。
「くそ……! くそ‼︎ くそったれが……‼︎」
そうはき散らしながら、額の傷を拳で叩きまくる。何度も何度も何度も。
なにがなんだかわからない。でもそうでもしなきゃ、息ができない気がした。
ガーゼに滲んだ血が広がり、額が生温かい。
すると突然、ギイが滑るように私に近寄ってきた。
側でぴたっと止まると、私の額の血まみれのガーゼを、べりっと乱暴にむしり取った。
びちゃっと落ちたガーゼから、床に血がしたたる。
「何するの‼︎」
ギイは無言で大きく口を開け、私の額の傷があるところを、リンゴを食べるみたいにかじりついた。
「痛っ……!」
一瞬、電流のような鋭い痛みが走った。しかしその後、じんじんと痛みは鈍くなっていき、じんわり温かくなっていくような感覚だった。
「……ごちそうさん。ほれ、血も止まったぞ」
私を離したギイは、口の端についた血を舐めとっていた。
私は思わず鏡台に移る。額の傷は消えていた。
「嘘……」
「何を驚くんじゃ。いつもこうしとるじゃろが」
ギイは少し哀しげに微笑み、目を伏せた。
「お前さんを見てたら、少し哀しくなっちまったわ……」
「なんで……? まさか私に同情でもしてるの」
「いんや。ちっと人ごとに思えんくての……」
ギイが目を伏せて、下を向いた。にやついてないところなんて、初めて見た。
「わし、何百年生きたか、いつ生まれたかも覚えとらん。が、ずーっとこんな体躯じゃ……。弱っちくて、身内どもからは馬鹿にされてのう。だれーも相手してくれんのじゃて……」
そうなんだろうか? こんなにいつも、遠慮がなくて、ひょうひょうとして、堂々としてるのに?
「だのでのぉ、こんなに喋るのは滅多にないんじゃが……、なんでかの。お前さんにはついぺらぺら喋っちまう……」
そうだ……。私もだった。声に出して、こんなに誰かに思いを発したのは、いつぶりだ?
ふと目が合う。自分の目を見ているような感覚。その目は曇り空の灰色の雲みたいだ。なんでだろう? 心臓が絞られたみたいな気持ちになる。
「ねえ」
「なんだえ……?」
ギイはまた目を伏せる。今度は斜め向こうに視線をやり、目を合わさせない。
「お願いだから、これからも来て、ずーっと……。私の血だったら、いくらでもあげる。なんなら吸い尽くされて、死んだっていい。だから、これからも……、一緒に……私と……一緒に……」
今度はつたう涙の筋で、頬が生温かい。それと、思いもしなかった言葉を発した驚きで、頭はごちゃごちゃだ。でも……。
部屋はしんとした。ギイは何も言わない。微動だにしない。
「ねえ……? なんかさ……、言ってってば……」
もう耐えきれなかった。そう言いながらも、涙は静かに流れている。
その後に、微かにずずっと鼻をすする音がした。
「お前さん……、そりゃあ……、……そりゃいかんよ……」
「なんで?」
「わしらは……、この状況に慣れちゃあ、いかん……」
ギイは俯いたままだが、見上げるように私を見た。
「わし、お前さんが何歳になろうと、死んじまおうとこれからも、延々と生き続けるんじゃて……。いつかはまた、一人じゃ……。お前さんと居るのに慣れちまったら、困るんじゃて、色々……。ほれ、血を吸う腕もなまっちまう……」
「私が死ぬまでの間でいい。吸いに来てくれるの、たまにでもいい。私、ただのご飯でいい」
何とか絞り出した言葉だった。自分でも訳がわからない。でも何かを何とかしたい気持ちだけにしがみつきたい。
しかし、一拍置きながらも、ギイは頭を横に振る。被っている白い帽子がずれるほどに。
「そりゃいかんわい……。お前さんは、これから死ぬまで、わしとしか話さんつもりかえ……? そんなんで、生きていけんじゃろ、人間っちゅうもんは……」
(は……? この子、私の為を思ってるの? )
そんな人を、私は知らない。だから、自分の心が今どうなっているのか、もう何もわからない。
今度は私がぶんぶん頭を左右に振って、ギイの手をしっかと掴む。
「生きていけなくたっていいんだってば‼︎ もう死んでるも同然なんだから! ねえ⁉︎」
そうして彼女の腕を揺さぶった。折れそうなほどに細すぎる腕は、冷たく硬かった。
「馬鹿言うもんじゃない……!」
ギイが私の目を見て、静かに低い声でそう呟いた。ずしんと重く空気が冷えるようだ。
「わしはなあ……なんでかの? いたたまれなくなっちまった。嫌なんじゃ。一度得たものを失い、また孤独の中を生きていくのも。見たくないんじゃ。お前さんが限られた一生を、わしで棒にふるのも……」
彼女はそのまま私を見ずに、顔を上げた。
「じゃから……、じゃから、ここでおさらばじゃ‼︎ それが互いの為! じゃい‼︎」
ギイが私の手を優しくほどく。解けたリボンのように、静かに私から離れていく。そして、きびすを返して窓枠に手をかけようとした。
「待ってよ‼︎」
私は叫んだ。今までのどんな時より、心臓が苦しかった。
「わかった……。私、そんな風になるの、やめる。だからさ……、また……、いつか会える……? また私の血、吸いに来てくれる……?」
なんでもいい。この子の何かにすがりたい。初めて覚える感情だった。
しばらくの沈黙。その後、ギイが振り向いた。初めて見た、柔らかくて温かい笑顔だった。
「強く生きられるようになっていたら、じゃな……。互いにの!」
その顔は夕陽できらきら輝いていた。金色の光が彼女を覆っていく。そして彼方へ消えていった。
夕日が急に沈んだように、夜になっていった。
幻をみたように、私はしばらくぼんやりとしていた。
しかし、寝起きのようにのっそりとだが、やっと鏡台を覗いた。額に傷はない。腕にもない。
ぐっと腕を握った。波打つ静脈に触れた。鬱血していく手のひらを見た。身体は生きている。
親指を八重歯でぐっと強く噛む。ぷちっと紅い血が出てきて、指にしたたる。それを舐めとったら、涙のようにしょっぱかった。
まだ血はしたたっている。こんなざま。でも、生きていく。
だって血がしたたるほどに、そんな思いをしてまででも、またあの子に会いたいんだから……。
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