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わたしの“おいたち”自己紹介!

20歳前後から社会に出ました。
そこから約20年、いろんな出来事がありました。
そのどれもが無駄じゃないんだなぁって心から思います。

1999年(18歳)―地元に就職することが嫌過ぎて進学を希望!初めて就いた仕事は…?

地元の商業高校ではバレーボール一筋でした。現役を引退してもなお、後輩のサポートと言い卒業ギリギリまで部活動にのめり込みました。

商業科では成績が上位だったこともあり、先生は地元の信用金庫への就職を勧めました。

しかしながら、コツコツ同じ作業を繰り返すイメージだった金融系の仕事には全く興味がなく…

ふと小さい頃旅行に行ったときに見たホテルで働いているお姉さんの姿を思い出し「あれなら私もできるかも」と思ったのです。

大学には経済的に無理!大学への進学は選択肢として持つことができなかったので、専門学校に奨学金制度を使って入学することにしました。

この専門学校で用意されていたプランが私の希望にピッタリでした。

そのプランは、ホテルで働きながらその寮に住まわせてもらえて夜間部の授業を受けられるというものでした。

半分自立しつつ、知識やスキルを習得できるだろうと思ったのです。

早く一人前になりたかった私は、愚直にウェイトレスを朝から夕方まで。

17時になると急いで着替えマッハで専門学校へ向かう。そんな日々を2年間過ごしました。(マッハってw)

いえ、2年間のうち半年だけ「一度だけ違うホテルでも働いてみたい!」という興味といいますか、欲求が出てきて、外資系のホテルでアルバイトをすることにしました。

ですが、印象としてはこうです。

お客様におもてなす側なのに…バックヤードでは「二重人格なの?」と思うほどに先輩や社員さんの罵声の嵐。

口が悪いというか、表と裏で様変わりするところがすぐに嫌になりました。

また、成果主義であることは社員の会話ですぐ察知しました。

日本の古くからあるホテルで働いていた私には、成果を出すことの意味もわかりませんでしたが、自分が成果なんて到底出せるとも思っていませんでした。しかも、会話が英語だったし…

また、成果が出せないと思うとすごく怖く感じました。

2社目のホテルを経験したうえで、もと居たホテルへ就職することを決めたのです。

2001年(20歳)―ホテルに入社したものの半年足らずで退職を決断!その後…

社会人としてのキャリアは、アルバイトを経て入社したホテルから始まります。

配属は、宴会部(宴会会場をセッティングしたり配膳したりする部署です)

アルバイト時代とは勝手が違い、宴会部の体育会系な雰囲気がどうにも馴染めなかった。

もともと部活はやっていたので体育会系が良かったはずのに…仕事になるとどうしても嫌だったのです。

直属の女性上司とうまくコミュニケーションが取れず、怖いとさえ思っていました。

「本当はブライダルに行きたかったのに…」

そんな心の声を毎日言い訳のようにして…

日に日に体力が持たずキツイしアトピーは出てくるわで、半年足らずで「もうやめよう」と決めました。

会社の方針でブライダルプランナーを希望しても専門学校卒ではその部署にダイレクトに配属されることは無く、ある程度現場を経験したら異動が叶うかも知れないと言われていました。

そんな悠長なことを言っていられず、退職の希望を上司に伝えたのです。

幸い、学生時代から同ホテルで働いていたことで人事部との接点も多く、その頃人事から宴会部に異動された当時の副支配人に「それなら宴会予約課で働いてみる?」(※ブライダルプランナーの所属は宴会予約課です)と、声をかけてもらい、二つ返事で異動させてもらうことになりました。

その頃、世間でもブライダルプランナーという職種は人気があり、ドラマ化されたりして私の目にはとても華やかな世界に映っていたのです。そんな華やかな世界に関わりたい!と。

しかし、宴会予約課に異動はしたものの、そう簡単にブライダルプランナーになることはできませんでした。

見習いだと言わんばかりに、ベテランアルバイトさんの指導のもと宴会予約課の受付業務を担当することになりました。

いわゆる、社員だけどアルバイトのお姉さんに業務を教わり、見様見真似で覚えていく。そんな環境でした。

「プランナーになりたいのになれない、どうしたらなれるやろ?」私の心は、その1点に集中していました。

せっかくチャンスをもらったのだから、ここでやっていくしかない!

ここで喜ばれることを増やすしか無いんだと、人が面倒くさいと思うことを全部やることにしました。

気持ちは崖っぷちで、辞めると言ったところを拾ってもらったので意欲を見せないといけない!そのためでもありました。

また、この会社ではアルバイトと社員では全く扱いが違っていました。

アルバイトさんでもできる仕事、それはつまり半人前なのだという気がしていました。

そこから抜け出すためにプランナーになる!

それは私にとって一人前になるということに繋がっていました。

宴会予約課に配属されて半年くらい経ったころ、地道に雑用をこなし、先輩に「雑用も立派な業務です!」と言い切れるくらい課の一員にはなれた気がしていたタイミングで、ブライダルプランナーへの道が開けました。

先輩がお客様対応する際に同席させてもらったりと、実地で学びつつ2〜3ヶ月後には独り立ちしていました。

はじめてのお客様対応は今でも鮮明に思い出せます。

2002年(21歳)―ブライダルプランナーデビュー!冷や汗の初受注

初めて結婚式を受注したのは、まだぴよぴよの21歳の頃。その頃の私には見積り金額が大きすぎて冷や汗をかきながら対応していました。

お金に対する概念が偏っていたことにあるかも知れません。

「お金はないんだ、使うな、気をつけろ!」これは祖母の口癖でした。

私にとってお金はあまりいいものではなく、怖いし、取り扱いたくないものとしてカテゴライズされていたのです。

ですが、サービス提供は別物です。

私はプランナーとして、そして各セクションのスタッフはそれぞれの役割を全うしてみんなで結婚式を成功させるもの。そう思っていたので、そこまでの重圧はなかったです(役割を全うするという責任感は人一倍強かったとは思います)

この最初のお客様には本当に喜んでもらえて、新婚旅行後におみやげまでいただき、めちゃくちゃ嬉しかったです。

ここで、一人の人として認められた感じがしました。

成績は良い方ではなく、1件、2件と、ぼちぼち受注していました。

そのころ、3年付き合った9歳年上の彼との結婚式を迎えることになりました。

正直、自分の結婚式の準備よりお客様の準備の方が楽しかったんです。

あまりテンションが上がらなかった…その原因は色々ありますが、一番大きかったのは、新居を彼のお母さんと決めて帰ってきたという事件があり、「あぁ、年も離れているし私が何か言ってもきっと覆るんだろうなー」という諦めが先に来てしまって。

とにかくお客様の対応のほうが楽しい。

日々の業務改善にも成長を感じられたし、そういった提案をすることも楽しかったんです。

まぁ、なかば結婚に関してはふてくされてたって感じです(笑)

結婚式は事なきを得、結婚生活がスタートします。

仕事はすっごく好きだし楽しかったけど、一応家庭とのバランスを取るようになっていました。早く帰るとか…。

結婚生活において、また旦那さんとの関係性においても、本当の意味で大事にされることは諦めていました。どうせお母さんが大事だろうしって一歩引いていました。

仕事は淡々とやる感じ。

だけど、新規の受注ができないことへの悔しさはありました。

悔しさはあるけれど…結婚によって自分自身の仕事に対する意識が変わっていくことに深く自覚はしていませんでした。

2004年(23歳)―1.5年の結婚生活に早くも終止符、成績はうなぎのぼりで絶好調!?

自覚したのは、1年半後。離婚した直後です。

もう、水を得た魚のように仕事が楽しく楽しくて。

成績もいつのまにかトップへ!毎日遅い時間まで仕事に明け暮れていました。

関係するセクションの人たちとの連携も強まり、お客様からのありがとうはみんなで作り上げた結婚式に対する感謝であり、代表してありがとうをもらっているんだという気持ちが出てくることにこの上ないやりがいを感じていました。

そんな無敵時代も長くは続きませんでした。

他のホテルへの異動が決まっていた先輩の個人的な理由により、ブライダルに力を入れていないホテルに私が異動することになってしまったのです。全く納得できず心の整理がつかないまま異動初日を迎えることになりました。

宴会予約課。

同じ部署名でしたがこのホテルでは一般の宴会案件が多くブライダルの年間実施件数がもと居たホテルの半分以下でした。

そんな中、「私ブライダルの申し子ですっ!」って感じのキャピキャピ星人みたいなスタッフがおりまして。

理不尽なやり方で人のお客様を騙してでも全部自分のお客様にするという荒業を使い、またそれが上司含め誰に注意されるわけでもなく野放し状態だということが一瞬でわかっちゃったんです。

本当に理不尽で嫌だった。

ヒエラルキー?何派閥?そんなのが嫌で嫌でとうとう自分が鬱になっってしまったのです。

10ヶ月くらい休職したのち、もとのホテルにブライダルプランナーとして戻ったのですが、気持ち的に前ほどはできなくなっていました。

でも、一人前になるには仕事しかない!

そんな思いがあり、プランナーの仕事だけじゃなく、エージェントへの営業で外回りをしたり、数値管理の業務を行ったりといろんな業務にチャレンジしました。

ですがそんなチャレンジも虚しく、会社の制度により残業もサービス残業も厳しく規制されるようになりました。

上司は口うるさく「早く帰れ」と言うようになりました。ほぼ残業代で食いつなげるくらいの月給だったのに、ついに経済的に苦しくなって転職することを決めたのです。

2007年(26歳)―ミーハー根性丸出しで大手広告代理店に転職

どうせ転職活動するなら「行ってみたい!」「やってみたい!」とテンション上がるところにしよう!というのが動機としてありました。

そのなかで目に留まったのは某大手広告代理店。

3年契約で満了時は「卒業」とされ、独立支援を受けることができるという目にも新しい募集要項に胸が踊りました。

この会社って誰でも知っているし〜というミーハーなところも否めないのですが、今まだBtoCかつ結婚式でリピート客というのは普通ありえないので、BtoBで同じお客様とともに歩んでいける仕事をしたいと思っていて、ここではそれが叶うと思ったので悩むことすらなく応募しました。

一般常識テストも圧迫面接もボロボロだと思っていましたが、スルッと受かっちゃって。

もうそれは嬉しくて、なんならもうゴール切ったんじゃないかってくらいのテンションになっていました。

仕事は営業。

フリーペーパーの営業がメインの業務です。

研修期間を終えて営業に出た直後、先輩たちが取りこぼしていた案件がパタパタっと数件取れてしまったんですね、、、ブライダル業界の出身者がいなかったこともあり、人が変われば違って聞こえたりもするということで。

営業で受注したところまではいいんだけど…ここからが悪夢でした。

何から何まで自分でやらないといけなかったのが本当に辛かった。新人には編集アシスタントがつくはずもなく、記事のライティング、クーポン企画などなど。しかも、原稿に集中していると「昼間は営業に出ろ!」なんて叱られたり…

1年弱でうつになりました。

休職するも、復帰を迫られた時期に「私には成果を上げることは出来ない」と思って戻るという選択はしませんでした。

はじめての転職はこうして幕を閉じたのです。

2009年(28歳)―ミーハーは続くよどこまでも…で、目に留まった大手小売店へ

この頃、2度目のうつを発症したことにより住まいを実家に移していました。

祖母と母との3人暮らし。

症状が落ち着いた頃、実家から通える職場を探しました。

そこで見つけたのが実家から車で20分ほどの大手小売店。

ちょうど、コンビニのように服を売るというコンセプトから、しっかり接客するスタイルに変わっていったタイミングでした。

ここではブライダルのときの経験が活かせました。

その後店長が変わって、私と他2名の店長代理にあてつけのような暴言を吐くような人で、店長代理として一番下っ端の私は、「すみません…」といつも謝っていました。

そうこうしているうちに3度目の鬱になりました。

騙し騙し出勤と休みを繰り返していましたが、30歳手前。

この先の人生どうする?という自分自身への問いに対して出た答えは・・・?

2012年(31歳)―独立開業するも半年であえなく廃業

もう誰かの下で働くより自分でやろう!

最初の転職のときに一度は夢見た起業。どうせなら今が一番若いんだからやっちゃえ!

って、たいした計画もしないままよもぎ蒸しのサロンを開業しました。

弟の当時の彼女ちゃんから勧められたネットワークビジネスでした。

西宮で2LDKのマンションの一室で半分をサロン、半分を住居としてオープン。

設備には250万ほどかかりました。

サロンを始めたきかっけは、自分自身がもともと子宮に疾患がありその治療目的としてよもぎ蒸しのサロンに通っていたことにあります。

周りにも生理痛が酷いとか、不妊治療中など、女性特有の悩みを持った女性が多く居たので、そんな女性のためのサロンにしたいと思っていました。

しかし実際には「痩身でなければ集客できないよ!」というネットワークビジネスの人たちのアドバイスを受けて、意図しない方向での集客をスタート。

毎朝5時か6時には起きて1,000枚近くポスティングをする日々。それで集客できたお客様は月に1人いるかどうかでした。

ネットワークビジネスの人たちとのミーティングも多く、独立したにも関わらず自分でやっている感が全然なかったのです。

半年経つ頃には、経費がかかる割に売上が上がってない。

毎日実家から送ってもらった白米ばかり食べている生活。

「何がしたかったんだろう…」

これはもう一度出直そう!と開業から半年で廃業届を提出し、再び実家に戻る決心をしたのです。

2013年(32歳)―ひょんなことからITベンチャーへ転職!

廃業届を提出したころ、某大手広告代理店の同期から一本の連絡が入りました。

「あきさんさ、実家に帰るってSNSに書いてたよね?」と。

それがきかっけで、友人の社長さんが人探しているから手伝ってやってほしいという話になったのです。

業種はIT。

「いやいやいや…30も超えて全く知らん業界なんか行けるかい!」

って、断るつもりでいたにも関わらず、「どうしてもダメ?」というその彼特有の暑苦しさ(?!w)いえ、熱意にやられ、話だけ聞いてみることにしたのです。

IT経験がなくても大丈夫です!

という言葉にやられ、また、私としても田舎に帰らずこっちに残れるからいいか!という思いで入社を決めました。

創業メンバー3人のうち、2人が辞めていくという環境下で、ITのことも全くわからない、社長に聞こうにも営業に出ていて聞けない、聞けた!と思ったら「ググってください」って。

その頃の私は、ググるって意味も知らなかったんですよ。

仕方ないので、提携先のパートナーさんに電話しまくり大作戦です。

「すみません…見当違いなこと聞いていましたら許してくださいね〜。というかまずこの言葉の意味が理解できていないのですが…」と、相手にしたら、そういうの社内で解決しておけよって話だったと思うのですが、もう必死のパッチでした。

心優しいパートナーさんに助けられ(しつこいから呆れられてたと思いますけど)、おおかたITというのはこういうもんだろう〜くらいの概要がわかってきた頃、今度は矛先が社長にいきます。

これまでの鬱憤が溜まっていて、若造社長の一挙手一投足、何もかもに腹が立つ。

怒りの矛先全集中状態でした。

今となっては何がそんなに気に入らなかったんだろうと思うくらいに怒ってました。

「やっぱり入るんじゃなかった…」と、1年8ヶ月ほどで退職しました。

ITはもうごめんだ。

イチから学ぶには遅すぎる。そう思い、接客が活かせるアパレル系で転職活動を始めたのです。

2014年(33歳)―IT業界を”あったかくする”という野望

仕事が決まるまでは派遣社員として某食品メーカーのお歳暮時期の伝票整理業務などで生活をつないでいました。

ありがたいことに、いくつかオファーをいただくこともありましたがピンと来ず…

ですがその後、ご紹介いただいてお会いしたこれまたIT業界の社長さんの言葉によって、今までの自分を活かすことができるかもしれないと思い、入社することを決めたのがChatworkのグループ会社(当時はChatwork Academy)でした。

私はもともとITに対する偏見がありました。

お客様と直接やり取りをすることに価値があるという信念でホスピタリティ、営業力、接客力の向上を目指してきた人間だからです。

ITなんて無機質で冷たい。

前職でも右も左も分からないまま相当苦労しました。

話だけ聞いて体よく断ろうとしていたのですが、面談のときにポロッと言ってしまったんです。

「もともと接客などをメインとして働いてきたのでITってちょっと冷たく思えてしまって」と。

すると、「そう思われると思うんですが、僕は、ITって人が使うもなので、それを冷たく使えば冷たくなりますけど、あったかく使えばあったかいものになりますよ」とおっしゃったのです。

このとき全部が「つながった!」と、思った瞬間でもありました。

このIT業界に、私が今まで培ってきたあったかい部分をプラスしていくことができて、IT業界が変わっていくとするならばそんな面白いことはない!と。

自分が介在することによって変化が生まれる。変化を生むことができそうだ!って思ったのです。「なんか、いけるかもー!」って。

今思えばあの社長の一言が人生の転機だったと思います。

入社後は、IT導入支援やコンサルティングをする社長たちコンサルタントの裏方として、チャットで質問に応えるカスタマーサポート業務を担当することになりました。

グループチャットの中で質問に返事するなか、メッセージ一つで血が通った感じで返事をしていくにはどうやったらいいのか、また、一回で理解してもらえるにはどんな構成やボリュームがわかりやすいのかを追求していきました。

すると、こんなお客様がいらっしゃいました。

近くに来たからと立ち寄られたお客様、「もしかしてあなたが中川さんですか?」って。

顔出ししていないのになんでだろう…と思ったのもつかの間、「あなたが中川さんでしたかー!いつもありがとう!」って言われたんです。

どうやら、工夫して書いていたメッセージはお客様の心に届いていたようで、「なんかあったかいんですよねー、中川さんのメッセージって」と言われ、会ってみたかったんですよと。

「きた―!」って思いましたね。

入社当時に描いていたIT業界をあったかくする野望の扉が開いていく感じがしました。

このときはまだ、ほんの少しですけれど。

この会社ではそんな体験を数多くさせてもらいました。

一方で、やれることが増えた私は、仕事を多く抱え込むようになりました。

体力にも限界がくるくらい働き詰めましたし、その抱えた業務を振ることができず精神的にやられていきました。

もうちょっとしたら独立しようと思っていたけれどいろんな要因が重なり心身ともに辛く、独立予定が早まったのです。

2018年(37歳)―逃げるように独立したものの…過酷な日々。

心身ともに疲れていたこともあり…最初は人と会わない仕事、ライターになりますと言って独立しました(会わずして仕事はできないのですがw)

ライターです!といえば、資格いらずでなれるしねと。だからといって仕事がもらえるわけもなく、途方にくれかけていました。

一方で、前職では「みんなの秘書室」と命名して秘書業務、営業アシスタント、総務や庶務、人事や広報の仕事を一挙引き受けてたくさんの経験を積ませてもらっていました。その経験から、「なぜベンチャーや中小企業の社長さんには秘書みたいな存在の人が居ないんだろう?」(秘書がいる社長さんが少ないんだろう)と、思っていたんですね。

逆に、子供を生んで働きたいけど外で働けないんだよなって話している元同僚の言葉も印象的で、この両者を引き合わせることが出来たらどっちもハッピーだよな〜って。

そんな青写真を思い浮かべては現実に引き戻されて、いまいま生きていくにはどうするか?と、色んなツテを使いました。

最初の受注は前職のパートナーさん。次に、一度しか面識はなかったものの覚えていただいていた某有名コンサルタントさんからのライティング案件。さらには、前職時代に名ばかりの社外取締役として関わっていた会社からの資料作成案件。

どれも労働集約型で資料作成においてはパワーポイントなんて使ったことがないという始末。

今となっては笑えますが、あのときは「やります」と言ったものの…という案件が多過ぎました。

そして寝る間も惜しんで…というか、納期が迫っているにも関わらず全く着手出来ていないこともたくさんありました。寝てる場合じゃないと。うたた寝しながら資料を1ページ1ページ作っていく、間に合うかな、どうかな、ギリギリかなというあの怖さはもうやりたくないです(笑)

その日暮らし的な日常に終止符が打てるのか?

最初の1年はそんなことばっかり考えていました。

2019年(38歳)―僕を助けてください!事務に追われて寝れてません!の、ひとことから

2年目はもう踏ん張りが効かなくなってしまって…半ばいろんな事を諦めていました。

「今のクライアントさんを大切にしよう。一つ一つ丁寧に」これが合言葉でした。聞こえは良いと思います。ですが内心はこうです。

「もう無理です。ギリギリ生きていけたらいいのでもう仕事量が増えませんように」と。追い込まれていましたね。それもそのはず自分の癖でもある抱え込み病が一時も抜けることなく走り続けてきたからです。

勝手な解釈ですが”自分一人でやらなきゃ!”と言う言葉にずっと取り憑かれていたのですね。

プツンと糸が切れたように、意気消沈。気持ちだけでなくもう家賃も払えないよ…というところまで売上は落ち込みました。「あぁ、また終わるのかな〜嫌だけど実家帰ろうかな〜」って毎日ぐるぐるぐるぐる思っていました。

そんなある日、現在の事業のきかっけとなる社長さんと会う日がくるのです。若手ビジネスマンが集まる会食での自己紹介タイム。事業という事業になってはいなかった私の自己紹介は、仕事内容として秘書業務とかライティング業務とか、その頃はChatworkのセミナーもしていたのでセミナー講師とか〜と、伝えて「色々やられてるんですね〜」と、その頃お決まりになっていた反応をいただき終了。

ですが、その後、ある社長さんが「秘書ってどんな感じでやられているんですか?」と、声をかけてくれました。

私は新規でお仕事をいただいてしまうと忙しくなって大変になって寝れなくなって…と、マイナスなことばかり考えていたので、のらりくらりだいたいの業務内容をお話しはしたものの、「また良かったら改めてお話しましょ〜」なんて当たり障りのない言葉で終話。

しかし後日、一度お話しませんか?と連絡をいただき再会。先方の業務内容やどんな思いでサービスを立ち上げられたのかを熱心にお話くださって、「ホントお若いのにすごいな〜!こういう人が日本を盛り上げていくんだな〜」って惚れ惚れしながら聞いていました。この時点でも秘書とか事務とかってお願い出来るんですかってきっと質問されていたはずなのに…決してクロージングに持っていかないようにしていました(汗)

諦めモードって怖いですよね、ホント。人の気持ちに気づけ無いんです。いえ、気づいているのに気づかないふりできちゃうんですよね。私って、なんてヤツ!今はそう思います。

それでも先方は諦めず3度目のオファー。ここではハッキリ!「僕を助けてください!事務に追われて寝れてないんです…涙」と。私はハッとしました。自分のことしか考えていないことに愕然としたとともに、心から私で力になれることは喜んでお引き受けしたいと思ったのです。

「社長が社長の仕事に専念できる環境づくり」

まさに、起業当時ぼやーんと描いていた青写真が現実になっていく感じがして。目が覚めました。思いを持って会社をされている若手社長さんを通して、これまでいろんな会社を渡り歩き見聞きしてきたことをフル活用してサポートすることで、絶対この会社さんがやってのけたいことを達成してもらお!と、心に誓ったのです。

この会社さんと二人三脚!いえ、それどころかたくさんのパートナーさんとともに次のステージへと着実にコマを進めている感覚があります。実際に実利としても成果を上げられています。

おかげさまで、この体験を通してビジョンが明確になり、営業が得意だけどその他のことは丸投げさせて〜という社長さんのサポートが事業の軸となりました。

現在、売上を上げるためのバックオフィス業務の代行『社長のマネージャー』と命名し、これを世の中に広めていきたいと邁進中です。



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