(3)日本山妙法寺の寺澤潤世師によるの戦火のウクライナからの熱い訴えと報告(冷戦後の世界の動きから今日のウクライナ戦争までの私の個人的な体験)
My personal accout of post Vold war world transition till today's Ukraine War.
冷戦後の世界の動きから今日のウクライナ戦争までの私の個人的な体験。
2022.5.17
https://www.youtube.com/watch?v=Y9OJwEYd2jc
(動画概要)
50年ばかり日本を離れて、インド・ヨーロッパ、そしてソ連邦を回っていました。ソ連崩壊後のこんにちまで縁のある方々の協力を得て、ご祈念しながら各地で修業しています。ここウクライナにはソ連崩壊前からご縁がございます。ウクライナではもう30年以上修行していました。
今回のウクライナ戦争が始まる前にウクライナに入りまして、戦争が回避されるようにお祈りをキーウ(キエフ)で開始してきました。1週間ほどお祈りを続けましたが、2月24日にロシア軍の侵攻が始まってしまいました。そのためイルピンの道場から避難して、カルパティア山脈の山中にある道場からお祈りを続けていました。この国家存亡のウクライナの戦争がどう展開していくのか、その推移を見守りながら、80日間その山にこもりまして、一日も早い平和回復と立正安国のお祈りを続けてまいりました。
戦争開始直後、3日目の深夜にカルパティア山脈の山中の道場に辿り着くのに、吹雪の中を歩かなければなりませんでした。その後80日間毎日3回のお祈りを続け、ようやく春爛漫になるカルパティア山脈を2日前に出まして、この道場に入りました。この道場はウクライナのちょうど中部にあります。ここはドニプロ川という大きな川のすぐそばです。この川の岸に立ちますと、対岸を見ることができます。周りは田園に囲まれたところです。
ウクライナにとって歴史的に大きな節目が2回ありました。ひとつはオレンジ革命です。その次がマイダン革命です。2度の革命をこの国は経験しています。そのマイダン革命直後、ロシアはクリミア半島に軍を動かし軍事占領し、そして軍の下で住民投票なるものを実行し、ウクライナから独立させ、そしてロシアに編入しました。同時に、今激戦が続いておりますドンバス地域のドネツク・ルガンスクにロシアは分離独立派というものを作り出して、そこに武器を提供し、さらにロシア軍を非公式に派遣して、ウクライナ側と軍事衝突になりウクライナから独立させようとしました。その時点で私はロシアがウクライナとさらに大規模に軍事衝突することは避けられない可能性があると心配していました。何とかそのような事態が起きないように、カルパティア山中とこの中部ウクライナに2つの道場を構えて、ウクライナにさらなる難が襲うのを何とか防ぎたいとして、立正安国の平和のお祈りを捧げながら、今日まで修行してまいりました。しかし我々の憂うることが起きて2月24日以降ロシア軍の大軍がウクライナに侵攻しました。
ソ連崩壊の1991年の後にロシアで新しい出家僧が生まれました。それがちょうど30年前です。30年後ソ連から独立した各国が辿った道を私はずっとつぶさに見てきました。1988年ゴルバチョフ書記長とレーガン大統領のモスクワサミットがクレムリンで開かれた際に、私は初めてモスクワ入りをして、ソ連70年の歴史の中で一度もなかったのですが、共産党の正式な許可を得て、モスクワサミットの開催中赤の広場でお祈りを続けていました。その時私は、鑑真和上が唐から日本に渡来された時にもたらされ唐招提寺に伝えられた国宝級の秘宝である仏舎利を、縁がありまして私がお預かりいたしまして、日本を出て全世界を平和巡礼して、ニューヨークの国連で開かれていました第3次国連軍縮特別総会にこの仏舎利をお届けするという特別の使命を受けたことがございます。その使節の一環として、レーガン・ゴルバチョフ氏のモスクワサミットのその日にモスクワに入り、赤の広場にそのお仏舎利をお祭りして、6時間に渡り、赤の広場で初めて仏教徒の平和のお祈りを正式に務めさせていただきました。その2日後、まだサミットの開催中にクレムリンの中に招請されまして、ゴルバチョフ書記長にそのお仏舎利を手渡してお授けする機会を得ました。その時に私は日本の仏教、アジアの仏教、全人類を代表してゴルバチョフ氏がまさになさんとする、グラスノスチとペレストロイカによってまったく新しい世界軍縮と冷戦終結の道が、仏様の力によって成就することをお祈りしてこのお仏舎利をお授けしました。
1989年にそのゴルバチョフ氏の新しい全人類の視点に立つ、全人類が核の危機から逃れるということを第1義とする新しい政治改革と、ヨーロッパで10年近く続きました、非暴力による市民の核軍縮運動、そして東西対決の冷戦の構造を克服しようとする市民の平和運動が相反応し、ついに1989年11月にベルリンの壁が一般大衆の非暴力の行動によって崩壊しました。その時ゴルバチョフ氏は東ドイツと東ヨーロッパの共産国家に対して、軍の侵攻を許しませんでした。それぞれの国がそれぞれの運命と未来を決定する権利がある、といことがその理由でした。そして、突如として沸き上がった東ヨーロッパ一般市民の非暴力の蜂起に対して、軍を動かしませんでした。ここにヨーロッパの全歴史、かつてなかった一般の民衆が全欧州を席巻する非暴力の力によってベルリンの壁が崩壊し、共産国家に代わりヨーロッパが非暴力により新しい国家となり、一気に冷戦終結という歴史的な偉業が成し遂げられれました。
そして1990年にはパリにおいて正式な冷戦終結がヨーロッパの全首脳が一堂に集結して宣言されたのです。そして1990年10月2日に東西ドイツは統合されました。それもまったく非暴力で平和裏のうちに誰も想像できない全ヨーロッパの、そして全地球の新しい世界再建の第1歩が始まったと思うや否や、1991年1月17日には湾岸戦争が勃発してしまいました。私はその湾岸戦争を阻止するためにイラク入りをしております。ただ一人の日本人として、その当時イラクに集まっておりました約100人60か国の非暴力の市民の活動家と共に、多国籍軍が集結するサウジアラビアの国境とイラク側の国境の境に平和のキャンプを築いて、この新しい冷戦終結後の世界のあり方をここで間違ってはいけない、そういう思いで非暴力の行動に参加しました。しかし我々の頭上を越えて多国籍軍のすさまじい攻撃が始まりました。
(以下略、湾岸戦争での行動、チェチェン戦争後の活動とロシア軍の虐殺、そしてウクライナ軍事侵攻など)