見出し画像

北コーカサス山岳民共和国連邦再興を巡って  <3-1>

以下は2024年2月3日に行われた「2・3チェチェン連絡会議シンポジウム
ー侵攻から2年、ウクライナをめぐる課題と北コーカサス山岳民共和国連邦再興構想」に合わせて用意された資料です。3回に分けて掲載します。     

 2023年8月1-2日、衆議院第一議員会館大会議室などで、「第7回ロシア後の自由な民族フォーラム」が開催された。初日に会のモデレーターを務めたのは、日本ウクライナ学会会長、神戸学院大学教授岡部芳彦さんで、フォーラムの創設者のウクライナ人オレーグ・マガレツキーや、ウクライナ側に立って戦うロシア義勇兵部隊の政治部門コーディネーターを務めるイリヤ・ポノマレフが、幹部席についた。イチケリア亡命政府首相、アフメド・ザカーエフも参加を予定していたが、入国査証が出ず、来日は叶わなかった。しかし、亡命政府外相のイナル・シェリプは来日した。

 日本側からは自民、立憲民主、日本維新の会、国民民主4党の国会議員5名が出席し、いずれもロシア国外に亡命中の人々であるが、ブリヤート、シベリア、イングリア、バシキリアなどロシア連邦各地で分離独立を主張する人士が来日、発言された。各党議員も発言したが、ウクライナや
コーカサスなどの現代政治を研究されている廣瀬陽子慶応大学教授に加えて、岡田一男も四半世紀にわたる日本のチェチェン支援運動について発言した。以下のロシア語訳を読みあげた。

「親愛なる友人、戦友の皆さん。
 日本のチェチェン支援運動は、1995年に仏僧、寺澤潤世(TERASAWA Junsei)の活動から始まりました。彼はロシアとチェチェンの母親たちに日本の平和行進のアイデアを提供しました。ロシアとチェチェンの兵士の母親たちは、モスクワからグローズヌイに一緒にバスで向かいました。そのバスには寺澤師の外、ここにも出席している作家、林克明(HAYASI Masaaki)さんと奥さん、三名の日本人が同乗しました。、その経験談から、東京で青山正(AOYAMA Tadashi)さんらの市民平和基金が中心になってチェチェン連絡会議が形成されました。1997年の戦間期の大統領選には、選挙監視にメンバーが派遣されております。国際的なチェチェン支援運動には、ムスリム主体の活動が目立ちますが、日本の運動は非宗教的ですです。確かに、此処に出席しているシャミーリ常岡(Shamil TSUNEOKA)のようなムスリムもいますが、全体的には平和主義者や人権活動家、ジャーナリスト
が主体です。
 第二次チェチェン戦争においても活発に、ロシアへの侵略抗議や難民支援に努力しました。活動は凡そ20年にわたりますが、いろいろな問題が起こって、2021年のウクライナ侵攻が始まるまで、最近数年間休眠状態でした。活動を再開したのは、周辺の人々の間で、余りにもロシアのプロパガンダに毒された人が多いのに驚いたからです。
 曰く、自分たちはアメリカ帝国主義に敵対してきた。だから、アメリカが支持するウクライナを支持できない。彼らは戦争には反対だと大声でウクライナの降伏を勧めました。今はロシアの占領を放置したままの停戦を呼びかけています。しかし、ロシア国家の背骨をへし折るまで戦いを続けなければ、ゾンビ国家の悪は続くのではないでしょうか。
 マイダン広場の小さなウクライナ国旗の数を見れば判ることですが、ウクライナの明日を担う若者たちの命が、日々失われています。少しでも早く、ロシアの広大な空間が、帝国主義と決別した自由な諸民族による平和な空間となる様、力を合わせましょう。」

 チェチェン連絡会議からは、林克明、常岡浩介両氏も参加された。第二日には、北大スラブ・ユーラシア研究センターの宇山智彦教授も発言された。特に発言は無かったが、ウクライナ支援関係者も多く参加されていた。さらに第二日目に目立ったのは、ロシア各地出身者からのウェブ参加に加え、中国各地の被抑圧民族の日本に避難している若者たちの積極的な参加だった。ウィグル、内モンゴル、満州、中国南部などからの切実な問題提起は、「ロシア後の自由な民族フォーラム」に対しても新たな視点や拡がりを提供したと思う。このフォーラムとしては、権威主義国家で帝国主義的侵略戦争を進めるロシアは、内部に抑圧された多くの少数民族を抱えており、その解放には強権体制を崩壊させ、帝国主義、軍国主義を拒絶した40以上の民主主義小国家群に分割させるべきと主張している。しかし、参加者を注意深くみると、多種多様な主張があり、一つにはまとまってはいなかった。

 国外に亡命している少数民族の活動家たちは、自領域のロシアからの分離独立を熱心に主張するが、現実にウクライナで義勇兵を組織化してロシアと戦っているポノマレフらは、分離独立していく地域を否定はしないが、細分化には懐疑的で民主化された、まとまったロシア連邦を追求している。フォーラムの様ざまな意見のとりまとめには、チェチェン共和国(イチケリア)からのイナル・シェリプが調整能力を発揮していた。

 イナル・シェリプは、2022年12月にアフメド・ザカーエフの要請でイチケリア亡命政府の外相に就任したが、従来のイチケリア派とは全く異なるユニークな経歴の人物である。まず、彼は第一次・第二次チェチェン戦争の戦闘経験者ではない。1971年生まれのチェチェン人で、5歳の時からチェスをはじめて、17歳でチェスのロシアチャンピオンになった。しかしプロのチェス競技者とはならず、父親スピアンベクと同じく映画人になろうと全ソ国立映画大学(VGIK)監督科に入学した。映画監督ウラジーミル・ナウモフが彼の師であり、岡田とは先輩・後輩の仲である。映画大学卒業後しばらくモスクワで働くが、1990年代半ばロシアを離れ、アメリカに渡り、カリフォルニア州で映画産業に従事した後、ベルギーに移って活動、その間に両国の国籍を取得している。チェス、映画の他、美術投資家としても知られ、ベルギー後期印象派のコレクターとしては一二を争う人物となった。

 現在は活動拠点をベルギーに置いている。ザカーエフとは30年にわたる親交があったという。ザカーエフの秘密の依頼をカムフラージュするため、モスクワの知人たちのチェチェンでの映画制作の企画に載せて、2009年から12年まで、カディロフ政権下の首都グローズヌイに映画制作会社チェチェンフィルムを設立している。チェスの世界では、2022年には、ウクライナが中心となってロシアに対抗し、彼を世界チェス連盟(FIDE)議長に推す動きもあった。

 外相に就任するにあたって、彼はザカーエフに対して提案したのが、イチケリア独立運動の見直しというか、再検討である。1990年代前半、ロシア連邦条約参加をチェチェン共和国は拒んで、主権国家として独立を宣言したが、何処の国もチェチェンを独立国として国家承認することは無かった。単に自分たちが独立するという強烈な意志だけでなく、周辺国の切実感、関心や利益も考慮する必要性を指摘し、イナル・シェリプが提唱したのは、1918年に建国された北コーカサス山岳民共和国連邦の再興であった。

 この連邦は、後にソビエト政権によって武力解体されたが、当時のウクライナ、トルコ、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ブルガリア、ポーランド、ジョージア、アゼルバイジャンによって承認されていた。2022年2月のロシアのウクライナ侵攻への対抗策、ウクライナによる対ロシア情報戦の一環として、2022年5月に「ロシア後の自由な民族フォーラム」が発足するが、ザカーエフやシェリプはフォーラムに積極的に参加する一方で、2023年5月、キエフでウクライナ主導の北コーカサス民族連合独立105周年記念国際会議を開催させた。

 北コーカサス山岳民共和国連邦の特色は、黒海沿岸の1864年にロシアによって近世最初の独立国家消滅を余儀なくさせられた旧チェルケシア領からカスピ海沿岸のダゲスタンまでを一まとめの連邦国家として一気に独立させたものである。その中には、ジョージア領内のアブハジアや、南オセチア、北コーカサスの現在のアディゲア、カラチャイ・チェルケス、カバルディノ・バルカル、北オセチア、イングーシ、チェチェン、ダゲスタンの各ロシア連邦構成共和国を含んでいる。 <3ー2>に続く

2024.01.20.  岡田一男(映像作家)

いいなと思ったら応援しよう!