【読書感想文】渡邉大輔「新映画論 ポストシネマ」を読んで
先日、映画の飲み会でVTuber論を語ったところ、渡邉大輔氏「新映画論 ポストシネマ」(以下、「新映画論」)を読んでみてはとオススメされた。早速、買って読んでみたところ、映画研究、VTuber研究双方に影響を与える程に興味深い論考に溢れていた。本記事は「新映画論」の感想と、本書を踏まえて浮かび上がったアイデアについて書いていく。
1.「新映画論」感想
■無視されてきた映画たち
私は映画評論家こそ、子ども向け映画やYouTube動画に関心の眼差しを向け論じるべきだと考えている。『映画 おかあさんといっしょ』三部作では、シネフィルが喜ぶであろう第四の壁を破る演出は当然といいたげに挿入され、アニメと実写がシームレスに共存し影響を及ぼし合っているのだ。ストーリー面に関しても奥深い。2作目『映画 おかあさんといっしょ すりかえかめんをつかまえろ!』では、イタズラをするヴィラン「すりかえかめん」にうたのお兄さん、お姉さんが詰め寄る場面がある。ここで明らかになるのは、イタズラをし他者から認知してもらわないと存在が消滅してしまうというものであった。イタズラするこどもの「構ってほしい」感情を明らかにした上で、仲間はずれにすることなくいかに共存するかを描いていくのだ。子ども向け映画だから侮るなかれ、脚本は作り込まれているのだ。
同様の例はアンパンマンの映画でも確認できる。『それいけ!アンパンマン かがやけ!クルンといのちの星』では、ばいきんまんが宇宙の彼方に捨てた産業廃棄物が遠い星を汚染し、結果として難民を発生させてしまう物語となっており、この社会の環境問題を踏まえたものとなっている。
■渡邉大輔氏が語る『映画 山田孝之3D』とは?
このように、シネフィルですら観逃してしまうであろう作品について眼差しを向けるのが映画批評家の役割だと思っている。そして渡邉大輔氏はそれを成し遂げた。まず、驚かされたのは『映画 山田孝之3D』について、真剣に向き合っているところである。本作は、俳優の山田孝之がカンヌ国際映画祭に作品を出品しようと山下敦弘や河瀨直美などを巻き込みながら映画制作をするフィクションドラマから派生した作品。日本では公開すると、評判は芳しくなく、「3Dでやる意味は?」「面白くない」との声が相次いだ。また、監督が松江哲明ということもあるためか、映画関係者で本作について語る声は見受けられなかった。渡邉大輔氏は松江哲明の問題を横に置いた上で、映画におけるリアリティの変容を分析する題材として『映画 山田孝之3D』を選んだ。そして、昨今のアイドル産業やプロレス人気の再興と重ね合わせ、ドキュメンタリーの要素と演出が混在する文化産業のリアリティを読み取ろうとしている。
このアプローチは映画の殻を破り、今のエンターテイメントを考える上で慧眼である。テレビをつけるとドッキリ企画が顕著だが、アイドルやタレントのプライベートを覗き込もうとする番組が多いことに気付かされる。ニュースキャスターも国内外の情勢を伝えるだけでなく、その合間に趣味や最近ハマっていることを言及する機会が多くなってきた。VTuberもアバターに付与した設定を遵守しつつ、自分のプライベートや交流関係を赤裸々に語る。虚構と現実を切り分けることのできない時代になっているといえる。
『映画 山田孝之3D』こそ未観であるが、本書を読んだ限りでは3D効果は、かつての「脅かし」としての用法でも、『アバター』、『世界最古の洞窟壁画 3D 忘れられた夢の記憶』、『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』のような2010年代以降掘り下げられた没入の用法でもないだろう。3Dメガネをかけることで、俳優・山田孝之との距離は近くなる。山田孝之を演じる山田孝之の中には虚構と現実が蠢いている。3Dメガネをかけ没入感はあるだろうが、現実に近づきつつ虚構から逃れることはできない。
3Dメガネによる効果を批評的に見つめているのではないだろうか。このように考えるとゴダールが制作した『さらば、愛の言葉よ』に近い作品と推察することができる。左右異なる画を映し、没入感を拒絶することで3D映画の本質に迫ろうとする運動が『映画 山田孝之3D』で感じ取れるのではないだろうか。
■インフラ化した幽霊
先日、観賞した『NOPE/ノープ』を考察する上で、本書の「インフラ化した幽霊」論は役に立った。渡邉大輔氏は『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』に登場する不気味なピエロ・ペニーワイズのことを「インフラ化した幽霊」と定義している。これは
ペニーワイズが「恐怖」により現出する存在
町の地下に張り巡らされた排水溝(ネットワーク)を移動する遍在性
一定期間ごとに現れる周期性
により説明されている。
それを踏まえると、『NOPE/ノープ』のUFOは欲望を具現化し、姿形を変えるインフラ化した幽霊と考えることができる。カメラを手にした時から、欲望は増幅されていき、もやは取り返しのつかない暴力のサイクルを生み出してしまった。欲望に負け、眼差しをUFOに向けることで吸い込まれてしまう。そして、金貨を降り注ぐ。傍観者である者は、欲望を吸い取り吐き出される金貨を「最悪な奇跡」として消費していくのだ。これは芸能人の結婚・離婚をはじめとするプライベートを凝視し、スキャンダルが発生すると視聴率やPVが伸びる状況そのものであろう。映画は丁寧に、テレビ番組のために搾取した動物の逆襲を挿話として組み込んでいる。その動物もUFOと同一の存在だと考えると、まさしくインフラ化した幽霊といえるだろう。
感想はこれぐらいにして、次からは本書から発展させたアイデアを書き連ねていく。
2.2020年代、マルチバースの旅
■質感が混ざらないマーベル映画の問題点
マーベル映画が『アベンジャーズ/エンドゲーム』後、マルチバースをメインに作劇を行おうとしている。しかし正直、上手くいっていないと感じている。『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』も『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』も、『スパイダーマン:スパイダーバース』のようにアメリカのアニメ調、日本の萌えアニメ調、白黒、カートゥーンが混ざり合うレベルの調和は極めて部分的だと思っている。前者や結局、往年のスパイダーマンとヴィランが集結するレベルで、当時のVFXの質感が混ざっている印象は抱かなかった。後者はアメリカ・チャベスが開くマルチバースのトンネルを潜ることで、ドクター・ストレンジはアニメ調になっていたりするが、異世界と現世界を明確に切り分けてしまっていた。
■『Everything Everywhere All at Once』から観る異世界共存時代
このような状況に対してA24は『Everything Everywhere All at Once』を発表し、マルチバースの行くべき方向を示した。ミシェル・ヨー演じるコインランドリーを経営する者が税務署で異界の扉が開き、世界を救うために戦う映画である。舞台はほとんど税務署から出ないものの移民ドラマからカンフー・アクション、アメコミ映画的VFXゴリゴリの世界、アニメへと遷移しながら物語が進行するマルチバースっぷりを魅せる。注目してほしいのは、税務署でのアクションと異界でのアクションが連動しているところにある。異界で取った行動が税務署でのミシェル・ヨーにも影響をもたらし、好奇な目で見られる。これを踏まえると、マルチバースの本質は異世界転生ではなく異世界共存であることがわかる。
日本では異世界転生ものが一文化を築いている。一般的に、現実で死を迎えた人物が現実の知識を引き継ぎ、異世界で新しい関係性を構築していく。だが、現実はどうだろうか?SNSが普及したことで、多くの人が自己の中に様々な顔を持っている。私の場合、会社の顔と、映画の伝道師che bunbunの顔を持っている。che bunbunの顔も映画ライターとしての顔、ブロガーとしての顔、映画コンサルタントとしての顔と分離している。しかし、それぞれの顔は時として混ざりあって影響を及ぼしていく。副業する者が、その知見を本業に活かし自己成長に繋げることが当たり前の時代となりつつあるのだ。
つまり2020年代においてリアルな物語とは異世界転生のような人間関係をリセットする物語ではなく、異世界同士が密接に関わり合う異世界共存の物語である。
■異世界共存の物語としての『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』像
『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』は物語面では異世界共存を描いている。マルチバースの扉を開いたことで、ヴィランが集結してしまう。ピーター・パーカーはヴィランを更生させて共存させようとするが、ドクター・ストレンジは早急なる追放を提案し対立する。これはSNSの発展で一般人ですら遥か遠い世界の問題が自分事のような距離感になる時代においていかに折り合いをつけていくかを描いている。ドクター・ストレンジは2015年以降、世界の連帯を諦め、移民問題、環境問題を押し付け合う国家を象徴しているといえる。それに対してピーター・パーカーは個の良心を代弁している。異世界共存の時代における個人と国家の関係性を暴いた作品と考えられるのだ。
3.マルチバースの世界としてのVTuber像
■物述有栖さんのASMR動画とアンディ・ウォーホル『スリープ』を比較する
マーベル映画が描くマルチバースな世界は決してフィクションとはいえない。既に我々の隣にある。VTuberがその例だ。VTuberとは、アバターを使いながら動画を配信する人である。コメントをするとそれに対してリアルタイムで反応するため、視聴者はアニメや映画を観る時とは異なる感覚を抱く。
VTuberを哲学の方面から研究している山野弘樹氏によれば、我々は配信者とアバターが重なりあって現出するVTuberという存在を認知し楽しんでいるとのこ。その具体例として、にじさんじのVTuberである物述有栖さんが5時間に渡って自分の心音を聴かせ続けるASMR動画を挙げよう。アンディ・ウォーホルが1963年に詩人のジョン・ジョルノの寝ている姿を5時間に渡り映した『スリープ』があるが、本作のFilmarksでの感想と、彼女のASMR動画におけるコメントの反応が異なっている。『スリープ』の感想は困惑や、数行で冷たく分析したものが多いのに対し、物述有栖さんのASMR動画では好感を抱く感想が多かった。
配信者の心音と、寝ているだけのアバターがシンクロする。視聴者は、配信者とアバターが混ざり合って現出するVTuber像「物述有栖」を意識する。現実における配信者の手触りをVTuber像「物述有栖」から感じるため、あたかも自分のすぐ横で彼女が寝ているかのような錯覚を感じ、それが親密さに繋がる。そのため、好感の声が多数挙がるといえる。
一方で『スリープ』を観る観客の多くは「アンディ・ウォーホルの映画」として本作を捉えており、画に映し出される存在は「人」としてしか認識していない。物述有栖さんのASMR動画に比べると心理的距離が遠いのである。例え、写っている人がジョン・ジョルノであると知っていたとしても、ジョン・ジョルノの前に「アンディ・ウォーホルの映画」というネームバリューが強すぎるため、彼女の動画ほどの近さを感じることができず結局ジョン・ジョルノではなく「寝ている人」という距離感で映画を観ることになるだろう。
■一人の配信者、二つのアバター(犬山たまき/佃煮のりおを例に)
配信者がVTuber以外の顔を持つ場合がある。犬山たまきさんは、漫画家・佃煮のりおの側面を持っている。この二つの要素が同時に現出する場面がある。
妹兄VTuber甲賀流忍者!ぽんぽこさんとピーナッツくん(以下、ぽこピー)が犬山たまきさんとしぐれういさんと対談する配信を例にする。本配信は、視聴者から寄せられたマシュマロ(質問)をもとに回答していく。その中で佃煮のりおとしてピーナッツくんの絵を評価してほしい旨のコメントが寄せられた。その時、画面にアバター「犬山たまき」と佃煮のりおの写真が共存し、ぽこピーはもちろん視聴者は、配信者を犬山たまきとして見るのか、佃煮のりおとして見るのか切り替える必要性が出てくる。アバターと実体が同時共存し、シームレスに対話がなされる状況はまさしくマルチバースであろう。
■異なる質感の共存(ぽこピー動画を例に)
石田英敬「記号論講義 日常生活批判のためのレッスン」によると、テレビは映画に比べると画郭、サイズが小さくなり、そして画が貧しくなったと語っている。時代はスマホの時代となり、YouTube動画はスマホサイズで見ることを前提としたものとなった。
YouTuber動画の時代を予見させたともいえる『デイヴィッド・ホルツマンの日記』。しかし、あの画のような立体的な空間の捉え方をしているYouTube動画は2020年代においてほとんど確認できない。例外的にガーリィレコードチャンネルが、映画的ロングショットや狭い部屋の中での奥行きの創造、長回しを多用し豊かな画を生み出しているが、多くは膨大なテロップ、クローズアップ、平坦な画で構成されている。
しかし平坦な画の中でも、層を生み出すことで奥行きを与えようとしているケースがある。ぽこピーがルームランナーを使う動画では、一つの画の中に実写としてのルームランナー、アバターであるぽこピー、そしてピーナッツくんがプレイするVRホラーゲームの画が同時に共存している。これを踏まえると、メタバース像を予見した『コングレス未来学会議』批評、そして日本のアニメと海外アニメの差を分析に新しい発展を見出すことができる。
4.海外のアニメの質感分離について
■『コングレス未来学会議』における分離した画
表面的俳優像を売り渡し、俳優が直接演じなくてもアニメーションやVFXとして映画が作られる世界を描いた『コングレス未来学会議』。本作はメタバースやVTuberが盛り上がる前に作られた作品であるが、今観るとリアルな物語だと感じる。アニメの側を被って交渉事が行われ、それが世界に影響を与えていく様子は、SNSでの活動が例え仮想世界の名前、アニメの仮面を被っていたとしても現実に影響を与える今と通じるものがある。実際に周央サンゴさんは、切り抜き動画をきっかけに志摩スペイン村が注目され、しまいには志摩スペイン村から園内貸切の案件を獲得するにいたった。VTuberが現実の社会活動に影響を与えた重要な例といえる。
ただ、本作において画は分離しているように感じた。実写、アニメ、CGがそれぞれ独立し描かれており、アニメもアリ・フォルマンの一定の質感に押し込められていた。思い返せば、ディズニー/ピクサー、イルミネーションのアニメーションは常に一定の質感を保っている。一定の質感が「世界観」として機能している。そのため、『シュガー・ラッシュ』2部作のような現実世界とゲーム内世界を隔てる作品であっても、どちらも等しい世界として描写されている。
■シームレスに質感遷移する日本アニメの描写
一方、日本のアニメーションでは、シームレスに質感移動させることで、奥行きを与えようとする表現が豊かに見える。
先日、配信された『リラックマと遊園地』では現実パートをストップモーションで描く。ゲーム内に没入する場面では、リラックマたちをストップモーションで描きつつ、ゲーム内世界は2Dアニメーションとして描写している。これが巧妙に溶け込んでいる。
『ONE PIECE FILM RED』にも着目する。ヒロイン・ウタが歌う場面ではVTuberの3Dライブを思わせる質感で描かれる。日常からかけ離れたスペクタクルであることを表現する。通常の2Dアニメパートでは、アクションが激しくなってくると線描画に変わっていく。キャラクターの心理をシームレスに質感を変えながら描いているのだ。
この手法はドラゴンボールや呪術廻戦の映画でも確認できる。この複雑な演出を海外のアニメ会社が習得した時、映画におけるマルチバースの扉がさらに開かれることでしょう。
5.最後に
コロナ禍でZoom、Slackのようなビジネスコミュニケーションツールが普及し、clubhouseやTwitterのスペース機能で日本だけでなく海外に住んでいる人とコミュニケーションを取れるようになった。私もVTuberと配信で対談したり、コンゴ民主共和国在住者とスペースで公開インタビューをした。現実はもはやマルチバースな世界となっている。それは別にVRデバイスを装備して『レディ・プレイヤー1』のような仮想世界に没入する世界やMCUのように異界から怪物がやってくる世界のような大げさなものではなく、既に身近な存在になろうとしているのだ。映画もそれに合わせて変化している。
今回、渡邉大輔氏「新映画論」を読んで、マルチバース時代、いや異世界共存の時代における映画批評のあり方を学んだ。映画だけでなくVTuber動画を考える指標となる2022年最重要映画本であった。