今こそ飛び込みたい!イラン映画の世界
こんばんは、チェ・ブンブンです。
2020年入って早々に悲しい事態となりました。
アメリカがドローンによってイラン革命防衛隊の司令官であるカセム・スレイマニを殺害したことから、世界は一気に第三次世界大戦に突入しようとしつつあるのです。
炎上上等、過激な煽りでイランを刺激するドナルド・トランプ米国大統領に対して、日本時間で1/8(水)の朝、イランはミサイルを発射。イラクにある米軍基地を爆撃しました。さしずめ終末時計もてっぺん1秒前の状態になってしまっている状況です。
Twitterでは今 #IranianCulturalSites というハッシュタグが流行しており、イランの美しい遺産の写真で少しでも戦争を食い止めようとしています。私も少しでも世界滅亡を食い止めるため、映画ブロガーとして何かできないかなと考え、 #オススメイラン映画10選 というハッシュタグを作ってみたところ、思いの外反響があり、なんと私が注目しているイスラーム映画祭公式も参加してくださる事態へと発展しました。
イランは、私が映画に嵌るきっかけを作ってくれた国です。中学時代、母親の勧めで午前十時の映画祭で上映されていたアッバス・キアロスタミの『友だちのうちはどこ?(Where Is the Friend's Home?,1987)』を観にいきました。
家に友だちの宿題をテイクアウトしてしまった少年が一日かけて、友だちの家へ宿題を届けに行くという路傍に転がっていそうな小さな物語にもかかわらず、壮大な冒険となっており衝撃を受けました。そこからイラン映画に夢中となり、高校1年生の時には、沖縄国際映画祭の一般審査員採用面接で『運動靴と赤い金魚(Children of Heaven,1997)』の魅力を延々と語り合格のチケットを手にしたことがあります。大学生になったらイラン映画について卒論を書きたいと思う程にイランに夢中だったのです。
結局、大学の卒業論文は天邪鬼根性を拗らせて、デンマークのポルノ映画について論文を書くことになったのですが、今でもイラン映画が観られる機会があれば積極的に観るようにしています。今朝も、映画配信サイトMUBIでバフマン・ゴバディの『酔っぱらった馬の時間(A Time for Drunken Horses,2000)』を観て、独創的なデス・レースっぷりに感銘を受けました。
そんな私だからこそ、今この記事を書かなくてはならないと思いました。イラン映画は映画の魅力を底上げしてくれる。イラン映画に興味あるけれど、どこから観たらいいのか、どのように楽しんだらいいのか?そういったところを手助けする記事にできたらなと思っています。
というわけで、語っていきます!
イラン映画の特徴
~ミニマムな世界から生み出される独創性~
イラン映画が注目されたのはここ 30年くらいの話です。厳密に言えば、1968年の『牛(The Cow,1968)』で今まで注目されていなかったイラン映画が国際的に注目されたイラン・ニューウェーブの運動からイラン映画史は華開いていったのですが、一般的な映画ファンレベルにまでイラン映画の魅力が伝わったのは1990年代以降の話であります。
イランは世界報道自由度ランキング2019(2019 World Press Freedom)で180位中170位と深刻な状況となっています。
ここ数年の結果をみても、
2018年:164位/180位
2017年:165位/180位
2016年:169位/180位
2015年:173位/180位
と常に下位層を彷徨っています。その報道の不自由さは、何年か前の日本のバラエティ番組で戦慄した記憶があります。イランに住む日本人女性の取材をしていたら、突如私服警官に拘束され、何時間も尋問される様子がお茶の間で放送されていたのです。
イランは親日国として知られています。1974年にビザ相互免除協定をイラン-日本間で締結し、バブル時代の人手を確保するためにイラン人をビザなしで受け入れていた。イラン・イラク戦争からの亡命先として日本が選ばれ、多くのイラン人が日本に渡ったことがあるので、彼らにとって日本は命の恩人としての眼差しがあるのだろう(一時期、上野公園でイラン人のテレホンカード売りが多かったのはこの時代背景が影響している)。今でも、イランに旅行する日本人のリポートを聞くと、口を揃えて「イラン人は親切だよ」と言い出します。そんなイランですら、カメラ事情は厳しい。私服警官がうろついており、少しでも不審な行為をみせたら取り調べられる国なのです。
映画においても同様で、世界三大映画祭のうち2箇所で最高賞を受賞しているような巨匠ジャファル・パナヒが政府に軟禁状態となっており、自由に映画が撮れない状態が続いています。『これは映画ではない(This Is Not a Film,2011)』はUSBにデータを入れ、こっそりカンヌへ輸出する形で上映されました。『人生タクシー(Taxi Tehran,2015)』では、街中で自由に映画が撮れないパナヒ監督が、師匠アッバス・キアロスタミの『10話(TEN,2002)』に影響を受け、タクシー運転手になりすまし、タクシーの中だけで物語を展開しました(本作は第65回ベルリン国際映画祭最高賞を受賞しました)。
これだけ情報統制が厳しく、表現の不自由を強いられる国ゆえに、映画はどうしても低予算/ドキュメンタリータッチな作品が多くなってきます。ただ、アフリカ映画の多くが文化人のエキゾチズムを満たす部族や民族、宗教、文化をテーマにした作品に頼っており、その特性で評価を底上げしがちな面がある問題を抱えているのに対し、イラン映画は文化や社会的背景を超えた映画的面白さを見出している作品が多いのが特徴的であります。
制作の困難さから来る閉塞感は、物語をミニマリズムにさせる。そのミニマムな世界からどのように個性を出していくのか知恵を絞ることで、観たこともないような独創的な世界を紡ぎだすことに成功しています。
TSUTAYAでも簡単に入手できる作品の中で、『運動靴と赤い金魚(Children of Heaven,1997)』を例に挙げよう。妹の靴を失くしてしまった少年は、彼女のために駆けっこの景品である運動靴をゲットしようとする。しかし、運動靴は3等賞の景品。速すぎても遅すぎても、運動靴は手に入りません。この微妙な順位を勝ち取るために、走りながら心理戦を繰り広げる少年の苦悩が微笑ましい作品となっています。
また、レースと言えばオムニバス映画『私が女になった日(THE DAY I BECAME A WOMAN,2000)』の第二話も忘れてはいけません。イスラム社会でタブーとされている《女性が自転車に乗ること》についてサウジアラビア映画『少女は自転車にのって(WADJDA,2012)』と全く違ったアプローチで描いている。少女軍団が自転車レースをしている。カメラは主人公にフォーカスがあたる。彼女はとても疲れていて今にも止まりそうだ。しかし、少女軍団が彼女を追い抜くと、「頑張らねば! 」と全力でペダルを漕いで先頭に躍り出るのだ。しかし、また追い抜かれてしまう。走行していると、後方から馬に乗ったおっさん二人がやってきて、説教を始めるのです。止まるんだ!無礼者め!女が何自転車に乗っているんだ!と。不思議なことに、おっさんが説教をする相手は彼女だけ。他の少女たちはアウト・オブ・眼中なのだ。そして、今にも止まってしまいそうな彼女の前に、音楽をヘッドホンで聴きながらガンガン飛ばしてくるカリスマ的チャリンコ少女が現れる。イスラム社会においてタブーを極めたアイコンが目の前を駆け抜けていくのだ。このこれはイラン女性怒りのデス・ロードだ。抑圧からの解放を自転車に象徴させ、それを止めようとする男との闘いを通じてイラン社会に強い批判を投げかけている。彼女は一人じゃない。仲間はたくさんいる。自由を得たイラン人女性もいる!そんな希望を、手汗にぎるアクションと美しい風景を捉え切る芸術性でもって描き切った作品であります。
また、美しい傑作『ギャベ(GABBEH,1996)』では学校の先生が、フレームの外に手を伸ばすと、別次元に手が伸びていき、異次元から黄色の花が取り出されるイランが生み出せる微かなファンタジー表現が映画に新鮮さをもたらしています。
『ペルシャ猫を誰も知らない(NO ONE KNOWS ABOUT PERSIAN CATS,2009)』はイランの情報統制の怖さが映画のスパイスとなっている作品です。西洋の音楽を規制するイランにおけるロック・バンドに打ち込む若者を描いた本作はゲリラ撮影で、青春の形を捉えているのですが、時たまチラつく本物の警察の影にヒヤヒヤさせられます。劇映画というよりも、今そこにある危機を描いたドキュメンタリーとしての面白さに満ちた作品です。
ドキュメンタリーと言えば『イラン式料理本(IRANIAN COOKBOOK,2010)』は衝撃的です。最初、うっかりYoutubeでも開いてしまったのかと勘違いしました。というのも、おばちゃんが「さて料理を作るわよ」とクッキングを始めるのだが、そのスタイルがyoutuberっぽかったのです。とはいっても、日本のyoutuberのパフォーマンスに見慣れている私にとってあまりの雑な演出に衝撃を受けました。
そこにはブンブンハローユーチューブもなければ俺が俺にオンデマンドもない。
効果音やエフェクトといった工夫もない。監督が雑談しながら、親戚の料理風景を撮ってそのままノー編集で映画にしてしまった感が強いのです。しかも料理ドキュメンタリーにも関わらず、全然鍋の中身を魅せてくれないし、録音マイクもカメラに映ってしまっている。野菜やスパイス、米が次々と鍋に投入されるのだが、鍋がどうなっているのかは終盤になるまで魅せてくれないのだ。しかも、3分間クッキングさながら「これが3時間寝かせたものです」と言わんばかりに粽(ちまき)の最終形態が出来上がっていたり、おばさんがあとは握るだけよ!とモンスターサイズのおにぎりを握り始めたりする。ただ、観ていくとこれが単に家族の料理風景を撮りたい作品ではなかったことがわかる。料理の合間の会話から浮き上がってくるイラン社会、生のイラン社会を投影しようとしているのだ。家事しかさせてもらえず、料理を作っても男どもに文句を言われる人生に不満を漏らすもの。形骸化したラマダーンの姿、イランの嫁姑闘争などドラマでは決して描かれることのない純度100%のイランがここに籠められていたのです。そして、ラスト。衝撃の展開でこの映画は幕を閉じます。コントロール不可能な部分に面白さを見出すドキュメンタリーの側面を最大限活かし、尚且つ監督の人生を捧げた体当たりなクライマックスに唖然としました。
イランというアイデンティティを喪失しても炸裂する
イラン映画は国際的に注目され、世界各国で映画を作るチャンスが与えられます。『別離(A Separation,2011)』で第61回ベルリン国際映画祭金獅子賞及び第84回アカデミー賞外国語映画賞を受賞したアスガー・ファルハディーは『ある過去の行方(The Past,2013)』でフランスロケを、『誰もがそれを知っている(Everyone Knows It,2018)』ではスペインロケを敢行している。
モフセン・マフマルバフはジョージアで『独裁者と小さな孫(The President,2014)』を制作した。
日本がロケ地に選ばれた作品もあります。巨匠アッバス・キアロスタミは『ライク・サムワン・イン・ラブ(Like Someone in Love,2012)』で日本を舞台としたドロドロな愛の三角関係を描きました。アミール・ナデリ監督は、西島秀俊を主演に、兄の借金を返すため殴られ屋をやる男の物語『CUT(CUT,2011)』を制作した。本作は、殴られ屋の男が、殴られる度に名作映画のタイトルを連呼するシュールな演出が特徴的な作品でした。
いずれの作品も、登場人物は極端に限定され、舞台転換も最低限に留めているミニマムな作りとなっており、ミニマムな世界から人間を捉えようとしています。そして、どの作品もイラン的という要素を限りなく透明にし、外に出たメリットを活かして映画の可能性を引き出そうとしています。
だからこそ、イラン映画は毎回驚かされるのです。
最後に
いかがでしたでしょうか?
少しはイラン映画の魅力が伝わったでしょうか。Amazon Prime Videoではアスガー・ファルハディーの有名作が一通り配信されています。また、TSUTAYA渋谷店では、イラン映画コーナーが設けられていたりします。一昔前まで、入手困難だったアッバス・キアロスタミ作品も、最近はDVD化され比較的手に取りやすくなっています。
もし、イラン映画に少しでも興味があれば是非挑戦してみてください!
そして、もし映画が気になったらSNS等で発信してみてはいかがでしょうか?
ひょっとしたら、文化的情報発信が戦争を止められるかもしれませんよ。
2020年が素敵な未来になることを祈りこれにて終わります。
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