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再開館記念「不在」 ―トゥールーズ=ロートレックとソフィ・カル展レポート

初めて三菱一号館美術館へ足を運んでみた

2025年の美術館初めは東京駅から徒歩15分のところにある三菱一号館美術館にて開催されている《再開館記念「不在」 ―トゥールーズ=ロートレックとソフィ・カル》展から始めることにした。

19世紀にパリ、モンマルトルを中心に歓楽街の生活を捉えたポスターを手掛けたアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックとフランスの現代美術家ソフィ・カル。一見すると全く結びつかない2名の作品をキュレーションした挑戦的なアプローチに惹かれて行くことにした。

開催概要には次のようなコンセプトが説明されている。

ソフィ・カル氏は長年にわたり、「喪失」や「不在」について考察を巡らせていることから、今回の協働にあたり、「不在」という主題を提案されました。一方、トゥールーズ=ロートレックは、「不在」と表裏一体の関係にある「存在」について興味深い言葉を残しています。

「人間だけが存在する。風景は添え物に過ぎないし、それ以上のものではない。」
1897年の旅行中、アンボワーズの風景に感動していた同行者に対して発せられたこの言葉に象徴されるように、トゥールーズ=ロートレックは、生涯にわたって人間を凝視し、その心理にまで踏み込んで、「存在」それ自体に迫る作品を描き続けました。

三菱一号館美術館公式サイトより引用

「存在」を描き続けたトゥールーズ=ロートレックと「不在」を捉え続けたソフィ・カルに共通するものを見出そうとする本展覧会の試みとのこと。

この思考実験は興味深いものがあるし、私も映画批評を書く際には複雑なものを二項の関係に落とし込み、そこから導かれる抽象と具体を結び付けることで新しい発想を見出そうとするのだが、この抽象化はいくらでも他の作家に代替できる危険性がある。つまり、トゥールーズ=ロートレック/ソフィ・カルである必然性が求められる展覧会といえる。

実際に観てみると興味深く感じた一方で、問題のある展覧会のようにも思えたので書いていく。

《再開館記念「不在」 ―トゥールーズ=ロートレックとソフィ・カル》展レポート

■トゥールーズ=ロートレックのコーナー

トゥールーズ=ロートレック「シンプソンのチェーン」

本展覧会は良くも悪くも三菱一号館美術館の構造を有効に活用している。3階をトゥールーズ=ロートレック、2階をソフィ・カルの作品でまとめているのだ。それにより、ひとりひとりの芸術家の軌跡をノイズなく巡ることができる。特にトゥールーズ=ロートレックのコーナーでは彼の作風を体感できる導線となっている。

トゥールーズ=ロートレック「エグランティーヌ嬢一座」
トゥールーズ=ロートレック「喜びの女王」

序盤では、彼のポスターや挿絵、素描の緻密さをシンプルに楽しめる演出となっている。連続してポスターを見ると、個々の表情に着目しつつも、ヒトとヒトの運動による全体的な躍動感を捉えることが優先される画家であるとわかる。

たとえば、「エグランティーヌ嬢一座」に着目すると、自分の肉体を制御しようと足へ眼差しを向ける踊り子、客席を見つめる踊り子の顔が共存する。その瞬間における個々の性格が滲み出ている。しかしながら、全体としては4着のドレスが結合しひとつになったかのような群れの運動を形成している。個/群のバランスに長けたマスターピースといえよう。また、「喜びの女王」は赤と黒の反転により、官能的な接吻が行われる瞬間を空間レベルで捉えている。

また、ジュール・ルナールの短文集「博物誌」に寄せた挿絵が立ち並ぶコーナーでは動物の表情を緻密に描き込んでいく。草を食べるために首を傾けるウサギの表情や、カタツムリが粘着質な動きで伸びようとする様は今にも動き出しそうなものがある。

これらを踏まえて、版画の過程や画集「彼女たち」を観ることで新たな発見が生まれるであろう。トゥールーズ=ロートレックは浮世絵に影響を受けていることから版画の制作過程は日本に近いものがある。

実際に、素描から作品が完成するまでの過程が横一列に並べられている部分がある。最初は腕から着色が始まり、段々と顔が形成され、最後に背景の青が塗られていく。別の場面では、被写体の輝きを検証すべく、赤や青の煌めきを散りばめていたりする。版画ならではのトライ&エラーの面白さや作品が組みあがっていく躍動感を的確に伝えている展示に思えた。

そして、版画集「彼女たち」である。19世紀パリにはたくさんの娼館が存在した。そのため、娼館の特徴を語るガイドブックが流通していた。トゥールーズ=ロートレックもパリの高級娼館を紹介する「彼女たち」を制作したのだが、官能よりもリアリズムを優先しすぎたため、あまり売れなかったそうだ。

実際に作品を観ると、顔より肉体全体の運動が優先されており、パリの恍惚から引きはがした翳りを強調した作品が目立つ。たとえば、娼婦が服を脱ぐ作品では、どこかこの仕事の後ろめたさや自分の行動に対する葛藤が感じられるものがあった。

トゥールーズ=ロートレックの作品は単にヒトの存在を描くよりかは、当時の空気、社会の存在を捉えようとしていたことに気づかされながら階段を降り、ソフィ・カルの世界へと我々は迷い込むこととなる。

■ソフィ・カルのコーナー

まず、映像作品『海を見る』から始まる。ジャン=リュック・ゴダールやレオス・カラックスなどの撮影を手掛けたカロリーヌ・シャンプティエとの共作である『海を見る』は、6つのモニターからなるインスタレーション。6人の男女が海を見つめている。時間差で人が振り返り、ホワイトアウトしていく。そのタイミングは予測不能であり、被写体への関心を必然と抱かせるものとなっている。本作は海がそばにありながらも生まれてから一度もそれを見たことがないイスタンブールの貧困層に着想を得ている。つまり、初めて海を観た瞬間が映し出されているのである。顔に関心を向けるアプローチにより「初めて」がもたらす複雑な心情を掬いあげる様に圧倒された。トゥールーズ=ロートレックの個/群の関係性と共鳴するものもあり、繋ぎとして最適なものがあるだろう。

初ソフィ・カル
文章と写真やオブジェを繋げることでひとつの作品となるスタイル
ソフィ・カル「私の母、私の猫、私の父」(『自伝』シリーズより)

ソフィ・カルははじめて知った芸術家である。作品の性質もあり、序盤からどのように捉えたらよいのか悩む。彼女は写真やオブジェの横にフランス語で詩のようなものが書かれている。

ジョセフ・コスース「ひとつのそして3つの椅子」

ジョセフ・コスース「ひとつのそして3つの椅子」を彷彿させるのだが、コスースの場合、文章は椅子を辞書的に説明したものであるので事象に対する眼差しはドライだ。一方でソフィ・カルの場合、作品制作時に感じたことがしっとりとしたタッチで描写されているため、作品に生々しい質感が生まれているように思える。

ただ「自伝」シリーズにはそこまでピンと来るものがなかった。理由は明白。メインはその後に続く「あなたには何が見えますか」「監禁されたピカソ」「なぜなら」における「無」にあったからだ。『海を見る』および「自伝」シリーズは「存在」を描いていた。トゥールーズ=ロートレックからシームレスに「不在」の世界へ誘うように、段々と「存在」が希薄となり「あなたには何が見えますか」へとたどり着く。1990年3月18日、ボストンのイザベラ・スチュアート・ガードナー美術館からレンブラントやフェルメール、マネらの絵画が盗まれた。1994年に額縁だけが本来あるべき場所に戻されたことから着想を得て作られた連作は、何も飾られていない額縁を見つめる鑑賞者の眼差しをフレームに収めている。周囲の空間からそこにどういった作品、肖像画、バロック様式と推察していく。ゴダールは、言葉ではなくイメージの可能性を信じつつ、想像力のために「無」が必要だと結論付けていたが、まさしく本作は我々の思索を試す作品となっている。

つづく「監禁されたピカソ」は、コロナ禍のピカソ美術館を訪れた彼女が作品保護のために隠されたパブロ・ピカソの絵画に惹かれ、その状態を写真に収めた作品群である。なるほど、本展覧会の冒頭でトゥールーズ=ロートレックとパブロ・ピカソの関係性を提示しつつも彼の作品は不在となっている。それと関連付けていることがわかる。厳重に保護された額縁の内面を覗きたくなるのだが、それは「なぜなら」に託される。

黒い布に詩が書かれた額縁が並ぶ。河原温を彷彿とさせるコンセプチュアル・アートだなと思って、深淵に書かれたフランス語を読んでいると、学芸員が「これっ、めくれるんですよ」と声をかけてくださった。

通常、美術館へ行くと、解説を読む、横移動して作品を眺めるないし反対の行動をとりながら鑑賞する。しかし、「なぜなら」シリーズでは、額縁の前にいながら2つのアクションを通じた鑑賞体験をすることができる。作品の特性上、詩的なフランス語を読み込む能力がないとその特殊性に気づけない。そして肝心な文章の翻訳と作品との距離が離れてしまっている。しまいには、めくったところで布が重いので、作品の全貌を鑑賞し辛いといった問題があり、ユニークな展示でありながらも手放しに賞賛できるものではなかった。

しかしながら、美術館で絵画を鑑賞する際に流し見する傾向があるため、めくって覗くといった能動的な鑑賞を促すことでソフィ・カルの難解さと向き合わせるのは良いと感じた。実際、最後に展示されていた真っ赤な布をめくると真っ暗な空間に湖のようなものが映っている写真が現出するのだが、ただ展示されていたらスルーしてしまいそうな僅かな色見から全体像を捉えることができた。

■総評

トゥールーズ=ロートレックとソフィ・カルについて知ることができた一方で、最初に感じた違和感を払拭することができなかった。つまり、存在/不在の軸で語るなら、トゥールーズ=ロートレックと印象派時代の風景画、ソフィ・カルとアンドレアス・グルスキーといったように時代の軸で作家を並べた方がしっくりくるのだ。違う時代の存在と不在を並べても、ただ展示しているだけに思えてしまい、確かにパブロ・ピカソを用いた論や『海を見る』の扱いに惹かれるものはあったが全体的に無理筋な展覧会だったといえよう。

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CHE BUNBUN
映画ブログ『チェ・ブンブンのティーマ』の管理人です。よろしければサポートよろしくお願いします。謎の映画探しの資金として活用させていただきます。