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秋だって。

流れ出てきた鼻汁の数だけ、私は必死で鼻をすする。ずるずると啜り上げる為に強ばらせた身体は、やがてひと息に弛緩する。ずずっ、だらだら。ずずずっ、だらだらだら。医者から風邪薬を処方されてからかれこれ一週間、ししおどしと似通ったリズムで鼻汁と戦っている。
小学校低学年から志した皆勤賞も、小学四年の頃に見事打ち砕かれた。それから15年、秋めいたと誰しもが気がつくようなタイミングで、風邪ばかり引いている。その風邪の終わりというものは、よく分からない。熱が下がった頃なのか、鼻汁もすっかり涸れた頃なのか。風邪をふた月も放置した結果、マイコプラズマ肺炎、副鼻腔炎、扁桃炎を併発したことがあった。耐え難い頭痛に耐えかねて救急車を呼び、知らない街の知らない病院に着くなり、恰幅のいい医者らしき男に 「風邪はね、そんなに続くものじゃないの、自己管理しないとあんた死ぬからね」 と怒られた。お前が言うな、と目線と同じ高さにある脹れた腹を見て思ったが、そんなこと考えすらも寝かせておいて、じゃあ、風邪はいつ終わりが来るものなんですか。そうはっきり聞くべきだった。

模様替え後、私だけの宇宙。

鼻をすするにもかなりの体力を使うと見えて、元来疲れやすい体質にこの習慣が取り憑くと日中耐え難い眠気に襲われるようになった。音もなく閉じてしまう目蓋は言いつけしたとしても話を聞いてくれない。そうした時には職場のありとあらゆる場所を行き来すると幾らか当該症状は和らぐのだが、椅子に磔にされた状態で身体に鞭を打つ方法なんてたかが知れている。手に握られたボールペンで指先を小突いても、太腿の厚いところを力いっぱい摘んでも、眠いものは眠いままだ。こんな時のためになけなしの金でキューピーコーワを買った癖して、そっくりそのまま、車で留守番をしている。単調な話し声がセレナーデを奏で、ペンを走らせる響きがその奏でを増幅させる形で、私はいつの間にか眠りに落ちる。ベートーヴェンの序曲のような、取り留めもない退屈。何年縛りかのかも分からない人生のうちにそっと訪れる、滑らかなる退屈である。不意に尋ねてくる眠気って、何故こんなにも気持ちいいのだろうか。

数時間の研修を終えて外に出る頃には、しとしとと降り続いた雨が本降りにかかっていた。アスファルトの陥没という陥没に水溜りが張っていて、敢えて私はそれを踏み抜くように歩く。何かにつけてハンズフリー。便利な時代になったものだ。その利便が災いして先日、ワイヤレスイヤホンのケースのみを小田原行きの電車に置いてきた。帰る巣を無くしたイヤホンから流れる、アルティッチョの夜。無茶なリフを覚えられないまま舞台へと駆け上がり、散々なギターを披露したライブにて、先輩が声を枯らしながら歌っていたナンバーだった。碧色のスポットに照らされたフラットな背中がキラキラと輝いていて、同性としてもかなり痺れる光景だったと思う。充電満タンにしてきた両耳の命が尽きるまで、ループ再生を繰り返す。心臓を失ったままのケースはたった今、何処へ旅に出かけているのだろうか。

小山田壮平が私にくれる、立体音響の秋。

しかしなぜ、傘はいつまでも人が持つものという相場が崩れないのだろうか。これほどまでに文明が進んだのだから、より強靭な対抗策があってもいいはずである。こちらの力が及ばない、淑やかな自然現象を前に片手の自由を奪われてしまうというのも、どうも納得がいかなかった。かといって傘をどこかに括り付けても見栄えは悪く、合羽で身を包もうものなら気持ちの悪い温みが生地と身体の合間で行き場を失う。最も私たちに身近な水に、最も有効な手段は未来永劫存在しないのだろうか。結局今日も、雨の中に身を投げる。決して濡れたいわけでは無いし、仮にその身を濡らしたいと思うなら、なんの躊躇もなく水溜りに飛び込むだろう。とにかく傘を差して歩くことが嫌なのだ。水溜りを踏んだために、革靴も運動靴もダメになる。何が辛いわけでもない、心は壊れてもどうにかなっていく。全てすっかり、渇いてしまうというし。

風邪をひくからといって、秋が嫌いだとは手放しに言えない。常緑樹の金木犀が、硬い葉であつらえた深緑ののっぺらぼうが、薄橙の装甲を見せるのは秋中の限られた時間だけである。昨秋は庭で花びらを拾い集めて、小瓶入りのモイストポプリを作った。塩蔵されてから早くも一年、銀木犀も花開いたのなら、金木犀の開花も間近だろう。あらゆる季節に較べて飾り気のない季節。どこまで行っても無地な装いだ。せっかく腕を伸ばした桜の葉すら、音も立てずに散っていく。ただただ、金木犀が花開くのをじっと待ち続けるだけの季節、それが秋である。突と降る雨にはもう、飽き飽き。窓が雨に濡れて、落ちる雫がヒルのようにヌルヌルとガラスを滑る。死ぬ前の走馬燈がこんな具合なら、とてもいい。

fuji SPERIA PREMIUM 400 35mm ー Nikon F2

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