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コレクティブハウスを舞台にした小説『隣人のうたはうるさくて、ときどきやさしい』~白尾悠さんからのメッセージ

皆様こんにちは。小説家の白尾悠と申します。11月の終わりにコレクティブハウスを舞台にした『隣人のうたはうるさくて、ときどきやさしい』を双葉社から上梓いたしました。

取材に協力してくださったコレクティブハウジング社の狩野様と宮前様、コレクティブハウス聖蹟とスガモフラットの皆様に、この場を借りて深く感謝申し上げます。

コロナ禍に実家仕舞いをし、某コレクティブハウスで生き生きと暮らし始めた母がきっかけで着想した小説でしたが、連載の第一回目を書きながら、今こうした暮らし方の小説を書く意義とは?ということを繰り返し考えておりました。そこで出てきたキーワードが「隣人」です。

隣近所との付き合いなんて必要ないし煩わしい、むしろ警戒すべき──たぶん多くの東京で一人暮らしをする、現役世代の健康な女性が持つであろう隣人観を、私もずっと抱いていました。

そのことにふと疑問を感じたのが、東日本大震災とコロナ禍です。私は当時暮らしていたマンションの隣に住む人たちの、顔も名前も知りませんでした。会社勤めも辞めていたため、誰とも顔を合わせず、言葉も交わさない日々が続くにつれ、ずっと当然と思っていたことがなんだか歪に感じられ、非常時にはリスクにもなり得ることを痛感しました。

幸い私は遠くない場所に仲のよい家族や友人が住んでいて、余震の恐怖や、触れ合いがタブー視される孤独に押しつぶされることなく、それぞれの非常時を乗り切れました。でもすぐ近くに、ほんの一言二言でも言葉を交わせる知り合いがいたら、もっと安心できたと思うのです。

そうして、いざというときに頼れる存在がいない人たちの孤独を思いました。

そばにいる他人全員が煩わしく、警戒すべき対象である限り真の平穏は訪れず、心も体も内へ内へと篭っていくしかなくなるでしょう。ギスギスした無縁社会は、ひたすら人間を損なっていきます。

コレクティブハウスという暮らし方は、この状況に対する一つのアンサーになるのではないか、と思いました。

誰かの友人や恋人や家人でなくても、“いい塩梅の隣人“にはなれるかもしれない、そんなふうに思える小説。まだ十分には世間に知られていないこの暮らし方の善いところを捉え、それぞれの登場人物が隣人との関わり合いの中で、どんなに小さくても光を見つける。そうした方向性が連載を通してぼんやりと浮かんできました。

十分に書ききれたのか、もっと他の書き方があったのではないか。小説を書き終わったときはいつだって自信がありません。実際にコレクティブハウスで暮らしている皆様にとっては、こんなの全然違う、という点も多々あるかもしれません。

ただ嬉しいことに、発売前後にこの小説を読んでくださった書店員や業界の方々の多くが、それぞれ違う登場人物に心を寄せながら、「一人が好きな自分だけど、ここだったら暮らしたいかも」という感想をくださいました。そしてコレクティブハウスが日本に実在することに、大変驚いていました。「将来の選択肢の一つに入れた」と仰る方もいました。

願わくはこの小説がいま孤独に苛まれている人にも届き、隣人という関係性に希望を見出してもらえたら、と思います。皆様におかれましても、もしも興味を持っていただけましたら、ページを開いて小説内のコレクティブハウス「ココ・アパートメント」の住人たち──いわば皆様のフィクションの隣人たちに、会いに来ていただけたら幸いです。(小説家 白尾悠)


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