45歳から高校入学した石神さん
《激レアさんを連れてきた。》というテレビ番組をご存知の方はみえられるだろうか?
オードリーの若林さんが司会の番組で、毎週激レアさん(とても珍しい体験をされた方)をスタジオに呼んで話を伺うという番組だ。
先日の激レアさんが印象に残る方だったので、簡単にではあるが紹介させて頂きたいと思う。
タイトルの通り、石神さんは45歳にして高校に入学された方だ。
何でも17歳の本当の?高校生だった時に全教科のテストでカンニングをして、ほぼ満点を連発し余りの成績の上がり方に先生から取り調べを受けた結果、残念ながら退学処分になったそうだ。そりゃそうだ。
石神さんはそういった経緯で高校中退後は漁師として働く事になった様だ。そして28年後の45歳の時点で漁師として働きながら民宿も経営されていた様なので、お仕事を大変頑張ったであろう事が想像される。
どういった経緯かは分からないが45歳にして、かつての失った青春を取り戻し高校の卒業資格を取るべく地元の水産高校に入学された石神さん。
水産高校にベテラン漁師が入学という辺りが石神さんの大人気なさを物語っている気もするが、学校に50万の入った財布を持っていき同級生に漁師・水産業は夢のある商売だという事を伝えていたエピソードもあるような洒落てる人の様なので、《強くてニューゲーム》みたいな事を企んでいたんだろうな、と微笑ましく思う。先生はさぞやりづらかったであろうが。
さて、とても長い前置きになったが本題はここからだ。
45歳から高校に入学し、高校卒業資格の取得を目指すという石神さんの姿を通して私が感じた《学ぶ》という事の目的について書いていきたいと思う。
学ぶとはどんな意味がある行為なんだろうか?
私が小さい頃に親や先生に言われたのは「しっかり勉強しないと社会に出てから困る」「勉強した事が将来役にたつ」と言われた。
36歳になった現在、その言葉は確かにとても身に沁みて感じる事は多い。
ちゃんと勉強していれば、この人生よりもっと多くの選択肢があったのではないかと感じる事は否定出来ない。
そういう意味で《学ぶ》とは新しく学んだ知識で新しい世界を広げる行為といって間違いないだろう。
だが、それは手段であって目的や意味とは少し違うのだろう。
例えば、良い車に乗る・大きな家に住むために、弁護士の資格を取る事は目的ではなく目標だ。
何処を目指すのかではなく、何故目指すのか?
学ぶ事で何処へ到達出来るのかではなく、何故学ぶのか?新しい世界を広げる行為《学ぶ》という事の目的とは?
私が考えるのはそれは《希望》だ。
今日より明日はもっといい日になると信じられる事。
今日の自分より明日の自分は成長出来ると信じられる事。
人は学ぶ事を通して、自分の未来は光り輝いていると信じる為に《学ぶ》のではないだろうか。
身体的、精神的に成長している間、10~20代は少なくとも昨日の自分よりも今日の自分が優れているという事は保証されているといっていいだろう。
その間は学ぶ事の意味が持つ重要性はなかなか感じる事は出来ない。どちらかというと目標・ゴールについて話す方が自分事として捉えられるだろうと思う。
《学ぶ》という事が大事なのは30代~の方がとても大事だと思う。
老いという避けられない問題を抱えながら、それでも明日に希望を持つ為には、自分が新しい知識を今日も積み重ねる事が出来たと思えるのは、明日への希望に繋がらないだろうか?
何歳から学び始めたとしても、どんな役に立たなそうな事だとしても、昨日より今日、今日より明日を良い日に出来そうだなと感じられる事。希望という光があなたの人生を照らす事が《学ぶ》という事の目的だと私は思う。
余談だが、私は曾祖母に入居している老人ホームまで編み物の教本を持ってきて欲しいと頼まれる事があった。
教本を渡しながら、編み物なんてやってたかな?と思い聞いてみると、ホームで友達になった方から教えて貰って始めたそうだ。
彼女は95歳から編み物を学び始め、残念ながら3年ちょっとしか学ぶ事は出来なかった。
編みぐるみのネズミやらティッシュケースやらを何個か残してはくれたが、その新しい知識に特に生産性はないだう。
楽しかったから、というのも勿論だとは思うが、彼女が95歳になっても明日の自分に希望を持てていたとしたら、とても素敵な事だと思う。
という訳で長くなりましたが、《激レアさんを連れてきた。》がとてもオススメですよ。というお話でした笑