2022/07/29 本日の日記「夏休みの敵との向き合い方」
動画編集の勉強を本格化させております。
この字幕の間はこれくらいあったほうがいい…みたいなのがいまだに掴めなくて、そこで苦戦してる感じです。
ただ段々レイヤーとか、表示タイミングと音のバランスとか、そういうのがわかってきた。これは面白いぞ。下手するとずっとやってられる。
昨日、コンテンツや物語のスタンスについての話を友達としていたんだけど、ふと気づいたことがあって。
読書感想文ってあるじゃないですか。あれ、すごい苦手だったんですよ昔。
本の感想文って言ってんのに読書の結果を自分に還元することをを求められて、その”還元”をうまく文章にできなくて泣いていたことは今でもよく覚えている。
ちょっと前にこんなツイートを見て、「このシート当時欲しかったな〜」ってすっげー思ったんですよね。
読書感想文で大事なのって選んだ本のセンスでもなく、その本の良さをいかに伝えるかでもなく、「読書」という行動を経た結果の自己変容を文章化するものなんだなって事がすげえわかりやすくできてるんだよな、このシート。
もちろん、読んだ本を簡潔にまとめるスキルも要求されるから、読む本によっては難易度って跳ね上がるんだけども。
基本的には「読書感想文」という行動を通して本を見つける楽しさだったり、読書そのものの楽しみも得られるというか、そういった楽しみを促してもいる。
その上で行動による自己変容を文章にまとめることで、成長や変容を実感することで自我の形成に役立てる…みたいな意図があることに大人になってから気づいたんですよ。
そう思ったらこれめちゃくちゃ面白いなって。
変な本でウケを狙おうとしていたあの頃のなんと愚かしいことか。結局大事なのは本の内容ではなくて、読書という行動をした自分自身の考えだったのだ。
そう、「本の感想文」じゃなくて「読書の感想文」なんだな。これ子供の頃には気づいておきたかった。
なんかやろうかな、俺も。8月だし。
なんか1冊読んで、読書感想文やるの。面白そうだ。
自我が完全に形成された今やると自己変容をどう書けばいいのかわからないけど。
なんか今なら書ける気がする!
余裕だ、原稿用紙3枚分なんて。なぜなら今この時点で900文字近く記入されているからな。
あ〜日記書いててよかった〜〜!!こういうのに気づける〜〜〜!!!!
最近大人になってから子供の頃にやっていたこと、やらされていたことの意図みたいなのをすごい顧みるようになった。
「ああ、あれってこういう意味だったんだなあ」とか、「ああ、こういう理由でこんなことやってたんだなあ」とか。
そういう動機だったり意図だったりを推し測ると、なんとなく大体のことには理由があって、気持ちがあることがわかる。
そう思えば、割と許容範囲って大きく広がるのかな〜と思ったり。
まあ、自分が嫌と思う気持ちとかには、抗えないんだけどね。
この日記を始めてはや半年くらいなんですが、自分が日記を書いている影響みたいなものってあんまりないと思って他のが、意外とそうでもないらしいです。
気づいたら自分の周りでこういった自己表現の場を設けて語らっている人が4人くらい現れてるんですよ。
自分がなんとなく自己表現がTwitter上だと苦手で、言葉を選んだりしっかり伝えたいことを伝えようと始めた「日記」という媒体そのものが周囲にウケているのはなんだか面白いな。
自分も有料noteで日記書いてる人とかの影響受けて始めたから結局こういうのってコンテンツツリーというか、誰かの影響なくして始まらないんだなあって改めて思います。
ただ自分が言うのもなんだけど、気軽な気持ちでやったほうがいいと思う。
義務感になったり、書かなきゃ…と少しでも気負うくらいならやらないほうが身のためというか…
自分自身たまに書くネタを捻ろうとしすぎてストレスになる時があるので…
無理なく気軽に。文字数とかも気にしない。
夏休みの絵日記と一緒ですよ。「きょうはなんにもないすばらしい一日だった」とでも書いておけばいいんです。
夏休みの宿題の話ばっかしてんなこいつ。
なんか体調悪いわけではないんだけどどうも元気が出ないので、とりあえずこんな感じで。
割と元気がないから適当に書こうと思ってたんだけど、いつもよりよっぽどタメになる話書いてる気がするな。
人んち行く気でいたけど、なんかちょびっと嫌な予感があったのでやめときます。
土日はアスラクラインを見ながらソシャゲ漬けにする。そうすることでまた一つ。何かいいことにつながるのだと俺は信じている。