街道脇番地なし
私の父方の田舎は秋田の山の中にあり、番地がなくても手紙や荷物が届く。
父方の祖母の実家は、その近所で鉄工所を経営していた。戦時中も戦後の復興期も羽振は良かったようだが、近年は「斜陽」となり、2001年に廃業した。土地は銀行の抵当に入っていたようだが、今はどうなっているのかよく分からない。インターネットでたまに調べると、工場部分は更地になり、事務所が廃墟になっているようだ。
旧街道沿いで、車社会には向かない立地なので、恐らく買い手がつかないに違いない。
祖母の若かった時代は、そこそこの金持ちで、鹿児島出身の営林署の職員と結婚した。それが私の「本当の祖父」だ。しかし、「本当の祖父」は戦争に取られ、南の海に船と共に沈んでしまった。だから、私はおろか父も「本当の祖父」に会った事がない。
私がよく知っている「おじいちゃん」は、「あは、あは、あはは」とよく笑う人だった。じつは「おじいちゃん」は「本当の祖父」の弟で、「本当の祖父」が亡くなった後に祖母が再婚した人だ。
私の母は「現代の価値観」によりこの複雑な家庭を嫌っていたが、私は昔の人にとってはそう珍しい話ではない事を知っている。なぜなら、昔は恋愛結婚はあまりなく、家と家との繋がりを大切にしていたからだ。父方の古い戸籍は見た事がないので、詳しくは分からないが、恐らく「本当の祖父」が家長か、または「ひいお爺さん」が戸主になっていて、祖母はその戸籍に入る感じになっていたのではないかと思う。そして「本当の祖父」が亡くなり、家の繋がりが切れてしまう事を避けるために、「おじいちゃん」が再婚相手に選ばれたのだろう。
しかし、母の無知を責める訳にもいかない。私も何となくこの「明治の家制度」を理解したのは、仕事で戸籍をいじるようになってからだったので。
私の幼い記憶で、この「街道脇番地なし」の地域を父と探検した思い出がある。大きな葉っぱを見つけて「傘の代わりにしよう」と言ったら「ならない」と言われた事。巨大なオリが置いてあり「昔はここの家では子グマを飼っていた」と聞いた事。(昔は野生動物に対する保護の考え方が、現在より甘かった。)
鉄工所も見に行ったのだが、生垣しか覚えていないのは、私がさまざまな事を理解するにはあまりにも幼かったからだろう。