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言語の豊穣ということについて

僕自身の狭い観測領域内ではあるけれども、このところ思考形式があまりに簡素化というか単純化しているのではないか、という違和感を感じている。
唯一の正解以外は全て誤り。実効性 - 殊に経済的な - が無ければ無価値。全ての価値は経済的観点から評価される - 「◯◯してナンボ」。
正しい方法を最高の効率で実行すること。手段・方法と結果が一直線に結びついた、いわば定言命法的な方法論 - 何々ならば何々をすること、等々。

Twitter上で観察される事象。(千葉雅也氏がインターネット上での権威性の喪失を指摘されているが)批評、出版物の権威性(否応無しに帯びる権威性)に気付かない層が確実にある。個人の意見としてしか聞かない。ある特定のポジションから、特定の文脈を背景に語られたこと、という理解がまるで無い。そのことから、脊髄反射的に相対化してそれは違う、とか言い出す連中が出てくる。

端的に、グルーバル資本主義の要請に従って単板的な価値-ネオリベ的教育をされ続ければこうなるだろう、ということなのだろうと思うが … 。

◇◇◇

昨年から今年にかけて、『言語が消滅する前に』(*1)、『欲望会議』(文庫増補版)(*2)、『文學界』でのブラックジョークの件(*3)、などを読んで、言語の豊穣ということについて考えていた。
これらの議論を読んで再確認したのは、言葉のメタフォリックな機能が通用しなくなっていること、つまり言葉の信号化が思っている以上に著しくなっているであろうことだった。
無影灯に照らされたような言葉。影もなく曇りもない言葉。ただ何かを命令的に(そう言えばプログラム言語では各実行文を「命令」というのだった)誤りなく伝達すること。

「初めに言葉ありき」
古来、言葉はひとつの世界さえ創り出せたのではなかったか。

このあたりについてどう書いたものか、ここ半年ほど書きあぐねていたのだけれど、悩んでも自分のことしか書けないので、僕自身がどのようにして言葉を獲得して行ったのか、ともかく書き出してみようと思う。

◇◇◇

小学生の頃、うちには小学館の『少年少女世界の名作文学』(*4)という、書名どおり子供向けの文学全集があった。
紙箱に入り、表紙カバーを外すと世界の名画(ドガやルノアールなど)が額装を模した表紙になっている。
高度経済成長期の賜物なのであろう、極めて教養主義的な装丁の本だった。
各巻とも4〜5編ずつ(原本が長編のものは多分抜粋で)収められていた。
月1回の配本だったので、5年くらいかかって全巻揃ったはずで、だいたい250くらいの文学作品を読んだことになる。

ギリシア神話とか、ガルガンチュア物語とか、少年少女向けにダイジェストされていたはずだが、結構刺激の強い作品も並んでた。
(今から10年ほど前に「ギリシア神話」の挿絵は伊藤彦造だったことを知った。子供心に官能的な女性の裸体図像にドキドキしたものだった。)

母が本好きだったせいか、他にはこれも月刊の『科学図鑑』(*5)(数冊まとめて紐綴じできるようになっていた)があって、こちらはジェミニ7号とか自衛隊のF104Jとか、当時の最先端技術の解説が、綺麗な写真やイラストと共に載っていた。

県営の平屋の4軒長屋、6畳2間に4畳半の台所(DK)、風呂場(名目上は物置)汲み取り式トイレという間取りの我が家の居間の鴨居の上に板を張り出して作った棚の上には平凡社の百科事典(*6)がどっかりと載っていた。
こちらは小学校高学年になった頃、2段ベッドの上段に上がると目の前にあったので、寝る前に片端から読んだ。
何を調べるというわけでもなく、というか、性に関することや女性の服飾とか、当たる端から芋づる式に読んでいった。
(この頃の経験から、辞書辞典の類は「引く」ものではなく読むものだ、というのが持論である。)

同年代の子供としては比較的大量の書籍、活字に恵まれた環境だったように思う。百科事典と文学全集、どちらも読む時間は楽しかった。
一方で物語のファンタシーに触れ、他方で先端科学の世界を知った。

そんな子供だったので、例えばサンタクロースなんて実在しないし、赤ちゃんはコウノトリが運んでくるわけではないということは割合早い時期に知っていたのだが、同時にファンタシーとして、お話として楽しむこともできた。

こうして、僕にとって世界は言語の構築物 - 複相の構築物 - として存在し始めた(もちろん、今改めて考えてわかったことだけれども)。
実体験を欠く知識ではあったが、ともかくも世界はこんな風に開けて行った(要するに頭でっかちの助平なマセガキだった)。

この時期、同時にいわば客観的世界記述と、象徴的多義的世界記述の両方に同じような距離感で触れることが出来たのは本当に僥倖だと今でも思う。

小学校高学年になると、TVの朝の番組でやっていた星占い(門馬寛明監修)を見てから学校に行っていた。中学生になると、文庫版のゲーテとかハイネとかの詩を読み、フロイトの「夢判断」なども手にした。同時に、大陸書房のオカルト本も好んで読み、少し大人向けの星占い本を読んでは興奮してたりしていた。

ジェミニが目指す天体と、兎がいる月とは何の違和感もなく僕の中では同居していた(星占いは今でも好きだ。毎日見ては「参考に」している)。
両義性(という言葉は、大学でメルロ゠ポンティを学ぶ過程で知った)、このような世界の受容の仕方を双子座的知性のあり方として(変な言い方だが)気に入っている。そうありたいとずっと思ってきた。

大学生になってからはブルーバックスと講談社現代新書の時代。
就職してからは通勤時間の糧として文理構わず読んでいた。退職した後、千葉雅也氏の著作との偶然の出会いから、また昔取った杵柄モードで哲学の学び直し(先生方にはひたすら申し訳ないのだが、本当に駄目学生だった)をしているというところ。そろそろ幽冥界が近づいてきている頭ではとても追いつかないけれど。

隠喩の消滅、意味の消滅、時間性の消滅、現在の刹那。ファンタジーの喪失。
言葉の喪失 - 世界の喪失 - について、まだまだ考え続けなければと思う。

(未了)

[関連記事]
読書メモ:『ライティングの哲学』 - わら半紙と原稿用紙の記憶

*1:『言語が消滅する前に』 國分功一郎 千葉雅也 幻冬舎新書 2021
*2:『欲望会議 性とポリコレの哲学』 千葉雅也 二村ヒトシ 柴田英里 角川ソフィア文庫 2021
*3: 『文學界』2022年1月号所収「最初のブラックジョーク」(千葉雅也)
*4:『少年少女世界の名作文学』(全50巻) 1964〜1968年
 もう一揃い、講談社の 『少年少女新世界文学全集』というのもあった。 全38巻 1962-1965年の刊行
*5:『科学図鑑』科学文化社 1963〜
*6 :『日本百科大辞典』(全14巻) 小学館 1962〜1965

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