ジサツ幇助依頼は、「生の可能性を自ら否定」し続け且つ「殺人命令する自覚欠如」の末。 「惨め」の感情は、幸福を当然とした傲慢。と、重症難病30年目の私は思います。。

ALSで、ジサツ幇助を医師2名に150万円で頼んだ、
2011年まで建築キャリアだったという女性。

彼女は、2010年までは自由で、十年後に150万円を他人に払える程度には、稼げていたんですよね。
今も介護してくれる人や理解に努める家族はいたんですよね。

(私は1990年からALSより(間違った)社会的偏見の酷い神経難病のため医者にも長年診ては貰えず(現在も指定難病ではありません)、協力者もなく、その中で度々動けなくなり、そのため小康状態動時には貧困のため四の五の言わずにボロボロになるまで必死で働き、その身体で人並みに労働をこなしても頻繁に差別偏見や冤罪を被され、本来叶えられた筈の夢も数々を御破算にされながら、その間を生きてました。介護や理解をしてくれる人も、私にはこの30年皆無でした。)

また彼女はALSであっても、Twitterを自由に出来得る環境にいらしたようです。

(私は手足はそれなり動いても、成人後すぐの発症だったため、貯金もなく環境が整えられずに、皆がしているオンラインも出来ませんし、
Twitterでも2010年から10年間、ストーカーアカウントに交流妨害目的の中傷に毎日遭ってきたため、Twitter登録に当り希望していた事は、何一つ叶っていません。)

彼女は惨めだ惨めだ言うてたみたいですが、
惨めという感覚は、
それ以前が当然に幸福を得られていた人特有で口にされる言葉です。

彼女が生の可能性の追求を「否定し続けていた」事を
私はとても残念に感じます。

請け負った医者2名も、結局は、
150万円目当てなのでしょ?

こういう意識の患者がいて、
こういう意識の医師がいるから、

難病への差別偏見格差が、未だ社会に絶えないのだと思う。

(意味、解りますか?)

彼女は、彼女自身や彼女自身の病を
偏見視していたため、
「惨め」という感情と「否定」を続け、
その結果、
彼女は「150万円を払えば
なんとかして貰える」に行き着いたのでしょう。

その150万円を、別の「挑戦」に使えば良かったのに、
と思うばかりです。。

2010年まで彼女は健康でなければ、
その150万円を稼ぐこともなかったかも知れない事、
その恩恵に、
なぜ目を向けようとしなかったんでしょうかね。。?

せっかく生まれて苦労して来たのでしょうに。

ジサツ幇助も「他人に殺人をさせる行為」だという自覚にも欠けていたのでしょう。それは殺人を子分にさせる何処かの親分と同じ行為でもありますよね。彼女が見つめたのは自分ばかりにも思えます。。

こうした思考に傾く人が、もっと軽い難病だったりした時には、別の精神疾患等の難病患者をあからさまに見下したり、患者会の後援議員の名を自分の手柄のように言いふらしたりする類いの患者になるのかも知れない、と、長い孤独な偏見被害に満ちた難病生活を送って来た私は、感じもします。。(そういう患者は割と多くいます。)

こうした形に傾くそもそもも、社会そのものが作り出してきた偏見で、またその改善に対する政府の怠慢が、大きく関与している事も、私はきつく主張したい。

(ちなみに私は霞ヶ関某省のジミン党寄り官僚らから、ひどい身障難病差別にあっていました。霞ヶ関があんなでは、差別の改善など進む訳がありません。そもそもそこへ勤めたのは、身障者蔑視の改善のきっかけを求めてでした。 )

同じ自死の形でも、先日の俳優さんの、必死で可能性を最後まで追い続けた結果とは、根本の姿勢が、私には真逆に思えるのです。2000年代初頭の頃に不況で借金を負って「皆のご迷惑にならないように」と火葬場で自死をされた老夫婦がおられましたが、その「周囲への思い遣り」とも違う様に感じます。


2020.7.23筆